第5話) 海外に幻滅した。

裁判は一日で終わったので、残りの滞在期間中に職探しをしようとLAの中にあるいくつかの日本人オーナーのサロンを回ることにした。ビザをサポートしてくれるお店を探そうと、ある美容室の日本人オーナーに会った。

「キミね、ビザがどうのこうの言ってる段階でおかしいよ、本当にアメリカに住みたいのなら、今すぐ自分のパスポートをここで破り捨てるくらいの覚悟がないと無理無理。自分だって10年前はパスポートなんで破り捨てたから」。

結局は、ビザのサポートはサロン側のリスクが大きいからできないが、僕が日本のパスポートを破り捨てて違法就労で働く覚悟があるのなら雇ってやると言わんばかりだった。

「この人、頭おかしい」率直にそう思った。

しかし、違法就労や違法滞在をしながら滞在している人、日本から追われて逃げてきたような人が思いのほか多かった。もっと夢を抱いて、目標に向かって一生懸命頑張っている人が海外には大勢いるのかと思っていたら違っていたのだ。

「と言うことは、正しいことを正しいとして進んでいけば、この大勢の日本人の上にのし上がれるかもしれない」

言葉は悪いが日本で生きていけなく海外へ逃避行している人が集まっているようにも見えた、その人達で小さなコミュニティが出来上がっている。

「あなたはグリーンカードを持っているんですか?」「労働ビザですか?」

なんて、他人のビザのタイプを聞くのはタブーと教わった。 日本人は日本人同士で集まり、英語が片言しか喋れなくても生活していける姿をこの目で見た。


丁度この2001年、プロ野球界では、イチローと新庄がアメリカに渡った年だった。この二人は大活躍をしアメリカでも英雄扱いだったのを覚えている。アメリカでプレーをしている日本人選手は、国内では満足行かずに、もっともっとと海外にて挑戦をしている素晴らしい人達だと思う。

そういや自分のアメリカ行きの話を友達や同業者仲間に話しをした時には、真っ向から反対されてものだ。
「ヤスユキ君ね、君の両親はサロンを立派に経営していて、地域でもNo1のサロンだ、しかも君は長男なんだから後継ぎだろう?実家に帰って後を継ぐべきだ!」
「君にだって大勢のお客さんが付いているし、組合の教育部に入って講師になれる人材だ、何がアメリカだ!逃げてるだけだ!」
なんて事をよく言われていた。

その度に新庄の移籍時の話を引き合いに出し、
「阪神の年俸5年12億円を蹴って、ニューヨークメッツの2200万円で契約した、新庄選手と比較するのはおこがましいですが同じことです。タイガースに5年残れば将来幹部候補だし、生活も保障されている。僕も地位や名誉も興味ありません、安定が保障されている現状維持より、給料ゼロでもいいから自分に合った環境に飛び込みたいのです、それが逃げと言われてもいいのです」。

今思えば、本当に逃げだったのかもしれない。古い組合体質が根強く残っている業界、自由と言いながらも束縛が多い、広告を出せば近所の同業者から 「お前のところだけ儲けたいのか」と電話が掛かってくる。忙しくて夜8時を過ぎてもお客さんをやっていれば道路の向こう側から、営業時間を守っているのかと視察している車が停まっている。

海外にいる日本人は、日本の妬み・僻み体質が嫌で、出る杭は叩かれ抜かれという風潮に反発したく、人間らしい気持ちの豊かな生活をしたいと夢を抱いて頑張っていると信じていた

が、しかし・・・、はっきり言って「幻滅」した。自分のように志を高く持っている人に出会えるのは非常に少ないとわかった。

このアメリカ、ロサンゼルスで二つのことが分かった。 一つは、「海外=流行の最先端」の方程式は崩れた。勤め先の日本人向けサロンの技術が、新しい日本の技術と比べると10年前で止まっていたことだ。

僕が勤めたサロンの誠二はLA在住8年目だった、しかし彼は8年もの間、日本の新しい技術を一切勉強していなかったのだろう、自分が見習いだった頃の昔懐かしい仕事が目の前にまだあった。

海外で滞在しているお客さんも長期滞在になればなるほど日本の流行に疎くなり、流行りモノを追いかけなくても良いので昔の技術の方が安心できるのであろう、いや流行を追いかけたくても、日本の情報にアンテナを張っている美容師が少ないのかもしれない。

ダウンタウンから少し離れてしまうと、アメリカ人経営のサロンでも流行とは程遠いようなサロンがゴロゴロしている。流行の先端を行っている美容室というのは、ほんの一握りだということ。平均値で計れば日本の技術の方が断然レベルが上だった。

も う一つは英語が話せないと、技術がいくら優れていても日本人客しか相手にできない。結果として自分の客層が広がらないのだ。台湾人を初めとして香港人やシンガ ポール人などは日本のスタイルが大好きで、日本人美容師にやってもらいたいから「英語の話せる」上手な日本人美容師を探す。やはり共通語は英語、言葉が離せないとコミュニケーションが取れない、 結果として仕事にならない。


新天地のオーストラリア生活を始めるにあたって、自分が肝に銘じておかなくてはならない事をLAで学んだようだった。自分の次の目標は決まった、次は仕事を辞めてでもいい、英語を取得するために日本人の友達は作らない、できるだけ日本語は読まない書かない聞かないし喋らない、日光のサルみたいだが、あのLAで生活しているのに全てを日本語で日本人コミュニティの中だけで生活しているような「海外日本人」にはなりたくなかった。

「日本人美容師」という看板を掲げている間は、海外に居ようが常に新しい日本の技術を勉強し続けなければならない、理美容師としての勉強、情報収集をストップした時点で「日本人美容師」の肩書きは外そうと心に誓った。

そして間違っても、営業中に警察に取り押さえられ後ろ手錠をはめられた誠二のような日本人美容師にはなりたくない。
2002年2月 僕はスーツケース一個で次の新天地、ブリスベンという街に降り立った。英語さえ身に付けば自分には技術がある、言葉と技術が伴えば、必ず世界中どこでも生きていける、そして特別な事はいらない

「誰でもできるような正しいこと、当たり前の事を続けていけばよい」と信じて。

第6話) 赤い英語

今の僕の英語力がどの程度なのかよく聞かれる。最近留学して来たばかりの学生などは特に気になるようで、「もうペラペラですか?」なんて聞いてきます。ペラペラというのは30歳過ぎて英語を習った僕には有り得ないと思っている。聞くところによれば、10歳を過ぎて海外で英語教育を受けても、絶対に日本語訛りが残ってしまうそうだ。

そもそもペラペラの定義って何なのかって思う。100%ネイティブのように話せるようになるのは不可能だけど、相手の言っている事を理解でき、分からない単語が出てきたら「その単語の意味はなに?」って聞くことができて、間違った文法ながらも自分を主張でき相手に理解してもらえるものがペラペラだとしたら、僕の現時点での英語力はペラペラなのだろうか。

英語を学習している人にとって、僕のバックグラウンドは興味があるらしい。「英語は昔から得意だったのですか?」とか「国語の成績はよかったのですか」とも聞かれるのだが、実際のところ学生時代の僕は、こんなに英語ができない生徒もいなかっただろうと思う。高校生になっても中学一年一学期の英語レベルで止まったままなのだ。「英語さえできれば人生が変わっていた」と何万回思ったことか。もう英語が嫌いで英語の授業は憂鬱で、宿題なんてやったことが無く、テストは記号問題しか答えれなく(山勘で当たるものだ)毎年三学期が終了しても、英語と国語の教科書は新品同様だった。これが中学と高校の6年間続いた。

天は二物を与えず、されど一物は与えてるとでも言いましょうか。理科と数学だけは得意だった、特に理科なんて一度教科書に目を通せば覚えてしまうくらいだった。クラスメイトの女の子に理科を教えて欲しいと頼まれて教えていたのだけど、その子は伝統のある進学校に合格し、自分は新設校の中流学校だった。英語がゼロというハンディは正直きつかった。

幼少の頃から変わった子供で、幼稚園児のくせにドライバーを片手に家中の家電を分解しては怒られ、与えられたのは古くなったコンセントの部分と壊れているラジオ、好きなだけ分解しろと父親が与えてくれた(笑)

小学生の頃は半田付けの練習をして鉱石ラジオを作り、トランジスタラジオを作り、アマチュア無線の免許が欲しくて無線工学を勉強していた。星が好きで、流星群の時期になると物置の屋根の上に寝転がって冬の晴れた夜空をいつも眺め、天文年間などを読んで数字が並んでいるのを見てワクワクしていた変な小学生だった。
中学になってもニュートンなんて科学専門誌を読んでいて、心から面白いと思って読んでいた。

ところが、当然であるが高校入試の時には英語で苦労する。高校入試の点数が、英語が8点、記号問題3問しか合ってなかった。その代わり理科は満点という変な点数で、足して二で割って、札幌では中レベルくらいの高校に入ることができた。ここでも英語さえできれば進学校に入れたのにという後悔の念があった。得意教科の物理は学年トップ、でも英語はいつも赤点だった。赤点を取ると通信簿に本当に赤のボールペンで「1」って書かれるのだ、そして全校生徒が出席をして校長先生の話を聞く終業式には出してもらえず、赤点保持者だけが集まる別室に呼ばれて「お前らはまだ一学期は終了していない、夏休みは学校へ来て授業を受けること!」とVIPルームへ隔離される。

統計確立なんて授業は面白くて仕方が無かった。微分積分はクイズだと思って一生懸命解いていた。
大学入試は、理科と数学だけが入試科目の大学が無いかを探した。しかしどこも必ず英語が必須で、まっ確かにこんな自分に都合の良い大学などあるわけないと思った。先生からも理科と数学だけが入試科目だったら早稲田でも慶応でも好きな大学いけるのになと嫌味を言われたこともあって、苦笑いするのが精一杯だったのを思い出す。

高校三年の10月、札幌はストーブを出す季節。一枚の資料が学校から手渡された、卒業生の進路先だった。札幌市内の某大学の卒業生は、聞いたことも無い小さなスーパーや工場へ就職が決まっているようだ。そう、これが自分が入れそうな大学のラインだったのだ。
「一生、こんな小さな会社で働いて、一生雇われサラリーマンでいいのか?」
それじゃ自分が社長になるには、どんな道があるのか。6年間勉強しなかったツケがこんな所に回ってきたと後悔をしたが後の祭りだ。

「手に職をつけて5年や10年辛抱すれば、自分がオーナーになれば経営者ではないか」

経営者の可能性を見て、技術の取得ができ、尚且つ英語のない学校へ言った。北海道理容美容専門学校、母親の卒業した学校だ。

もし、自分が英語の成績が良くて、進学校へ行き、良い大学へ進んでいたら、海外で働くことなんて無かったかもしれない。

「人生とは遠回りが実は近道だったりするんだ」

こんな英語のできなかった自分が、海外で英語の中で仕事をしている。こんなに国語の嫌いだった自分が、凄いメンバーと一緒にWebマガジンに投稿しているし、過去にも某出版社から執筆依頼があり自分の文章が数ページであるが本の中に掲載され発行された。

僕は社会人になってから本を読み、文章の書き方を勉強した。30歳を過ぎてから英語のABCを習い3単元のSを取得した(笑)。勉強に遅いなんてない、勉強したいときが始め時なのだ、年齢なんて関係ない、周りの目なんてどうでもイイ。思い立ったが吉日である。

こんなに英語が駄目駄目な生徒だったのに、文章なんて書いたことのない生徒だったのに。。。

あきらめない限り、夢は逃げない。20年後にスタートしたっていいじゃない、だって今は嫌いなんでしょ!?好きになった時にやりゃいい、好きになれるように仕向けりゃいい!
人生というのは分からない。分からない人生だから面白いのだ。