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第9話) ヘアカラーは日本独自理論

日本で美容師として、しっかり勉強してきた人が、必ずぶち当たる壁はヘアカラー。日本のヘアカラー理論が、こうも世界から孤立しているなんで思いも寄らなく、戸惑いと驚きの連続でした。

どっちが良いとか悪いとかではなく、アジア人には日本の理論、西洋人には世界標準の理論が適している。頭の中で英語と日本語の二ヶ国語を使い分けるように、ヘアカラーだけはアジア人か非かによって二つの異なったカラー理論をチョイスしていかないと失敗してしまう。

このヘアカラーについては余りにも専門的過ぎるので、どうやって一般の人に説明すれば良いのかをいつも考える。やはり写真を交えて説明するしかないので、 世界と日本とで何が違うかを少しでも分かってもらえれば良いかと思う。かなり噛み砕いて説明をするのでプロの方は物足りないかと思いますが、御了承下さ い。

ヘアカラーを考えるに当たって重要な位置をしめているのが、「レベル(明度」です。どのくらい明るいのか、どのくらい暗いのか、「この髪の明るさはレベル7です。」とか「これは8トーンの明るさですね」とか表現します。

日本人の平均の黒髪は4トーンから5トーンと言われています。黒髪に何色を塗っても、黒は黒なので(黒い画用紙に何色の絵の具を塗っても色は見えません ね)、そこで、私たちの髪の色を作っているメラニン色素を壊していかないと、茶色も赤もアッシュも色が出てきません。壊せば壊すほどハッキリした色味が出 てきます。白髪をパープルに染めているお婆ちゃんを見たことあるでしょうか。あれは白い画用紙に色を塗っているのと同じなので、キレイに見えるのですね。

ヘアカラーをする時に、必ず白の液体(過酸化水素水)を混ぜ合わせて発色するようになってます。消毒用のオキシドールも2.5%~3.5%の過酸化水素水が入っていて、子供の頃、傷口の消毒でかなりしみて泣いた記憶もある人もいるでしょう。

日本の薬事法で、美容師が使えるのは6%の過酸化水素までです。その過酸化水素を利用して、髪の毛のメラニン色素を壊して、本来の髪の黒を明るくしていき ます。黒が壊れてなくなれば、隙間ができるので、その中に目的の色味(赤や茶、アッシュなどの希望の色)が発色されるというわけです。

これは、日本のカラー理論に基づいてのカラーチャートです。5トーンから15トーンまでありますね。ブリーチを使用しないで、一回で明るくなる限界は髪質にもよりますがおよそ12トーンです。
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さて、ところが世界標準のカラーレベルが全く違うんですね。これが戸惑いの元凶でした。

1~10までの10段階なんです(写真は2~9まで)。日本は15(理論上は20)まであります。

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でも、以下のようにに照らし合わせても合致しません。

世界標準         10    9   8   7   6   5  4  3  2  1
日本標準 15  14  13  12  11 10  9  8  7  6  5

世界の1、日本の5が同じなら、世界の5と日本の9は・・・全然違います。何の法則も見当たりませんでした。

僕がオーストラリアの美容師科コースのカラーの授業で、「Yasuの自分の髪のカラーレベルは?」と聞かれ、「僕の髪は5レベル」って答えたら、「あなた のようなアジア人の黒は1レベル」と何て事言うの?って顔で先生にビックリされました。日本では5レベルなのに・・・(笑)

このように、世界標準レベルの1レベル~8レベルの8段階を引っ張り出して、それを更に16段階のレベルに区分けして、日本独自のカラーチャートを作ったような感じです。

「日本では、こう習ったから、西洋は・・・?」という考え方をしたら、もっと分からなくなります。全く新たな分野を勉強していくと思って、「アジア人の髪は1レベル」と素直に覚えないと、いつまでも世界標準のカラー理論は取得できません。

世界標準の理論が全て正しいかというと、Yes and Noです。ケース・バイ・ケースですね。

海外の美容師さん(もしくは日本で経験の無い日本の理論をしらない日本人美容師さん)にヘアカラーをしてもらった人だったら、経験があるかもしれません が、薬液が頭皮にしみて痛くて我慢できず、家に帰ったら頭皮が真っ赤になっていて、2、3日後にはフケのように一皮向けてしまった。。。なんてよく聞きま す。

これは、先ほどの過酸化水素水なのですが、日本では6%までしか認可されていないものを、海外では12%まで美容師さんが使えます。ちなみに30%になると劇薬扱いになり火傷しますので、一般の人が入手するのは困難です、美容師でもそうです。

海外の理論では、「アジア人の髪は黒だから、ミディアムブラウンにするのも黒の色素をたくさん削らないと、色味が出てこない」という理論で、その最強の 12%の過酸化水素水を簡単に使用します。できるだけメラニン色素を削って、そこに目的の色素を入れればキレイな深みのある発色になると教わります。た だ、毎日のシャンプーで色味は落ちていきますから、一ヶ月もしたら、髪は黄色っぽくなり、ダメージもひどくパサパサになってしまいます。

ここが日本と違うところです。日本は6%の過酸化水素水までしか使えないので、この範囲の中で色味をつけていく工夫が施されています。本来の髪のメラニン 色素をそんなに破壊する事なく、自分の髪に残ったメラニン色素を逆利用して色を乗せれば、傷まないでキレイに発色されるように日本のカラー剤も工夫されて います。シャンプーで色味が落ちたとしても、激しい色の変化にはなりません。

逆にオーストラリア人の髪はというと、本当に殆どの人がカラーをしています。6週間に一度のリタッチをし、色素が流れてしまったのを、トナーといって色素 補給をしたりと、それはカラーにはマメです。パーマや縮毛矯正をやらない代わりに、髪のおしゃれはカラーに懸けていると言っても過言ではありません。

アジア人の髪では、ほぼ不可能なレベル10(世界標準理論)まで、簡単に出ちゃいますし、1レベルまで暗くする事も可能です。日本のレベルで言うと、4から15レベルより、もっと広い範囲でカラーを楽しめるという事なんですね。

そして、明るいレベルに持っていける分、微妙な色加減でオシャレを楽しめます。ブロンドヘアーと言っても、微妙に色合いの違いを調整する、ヘアカラーの技 術は目を見張るものがあります。この西洋人の髪の色を操るカラーリストは、日本の技術よりも上です。最初は、何がどう違うのか、ブロンドはブロンドじゃな い?って、その微妙さが分かりませんでしたが、今では目が超えて来ました。

色々と、日本の技術の方が優れていると、この章では説明してきましたが、ブロンドのヘアカラーの技術だけは、日本で育った美容師には真似のできない高度な技術のようです。

第10話) 西洋は胸、日本は足。

日本からオーストラリア社会に飛び込むと、流行というものが無いように感じられる。

一般に、流行に流されやすい日本人。人と違うものを身につけると疎外感ができて心地が良くない。周りの目が気になる。どこかのカテゴリーに自分が入っていないと不安。海外から日本を分析すると、そんな気がしてならない。

それに比べて、オーストラリア。 誰が何を身につけようが、お構いなし。自分の好きな色を身に付ければいいし、自分の好みを主張しても、誰も何も言わない。ピンクで統一された服やハットを身につけているお婆さんなんて、もう見慣れてしまったし、そんなので振り返っている自分が恥ずかしい。

男の子なんて、みんな短く刈り込んだ髪、短パンにTシャツ、そしてビーチサンダル。これ以上のオシャレをするとゲイに間違われてしまう。日本のメンズノンノやメンズヘアカタログをオージーの男の子に見せたら「おおお~、これって日本のゲイ・マガジンかい!」って興味深く見ていたのを思い出す(笑)日本の男の子が海外に出ると、ゲイに人気があるというのが理解できる。そのくらい日本人の男の子もオシャレなのである。

女性のメイクにしても、日本ではコンビニへ買い物を行くにも、きちんとお化粧をして出かける。しかし、こちらでは、ノーメイクで日焼け止めだけして外出なんて珍しくない。休日であれば間違いなくメイクアップなどしないでスッピンででかける。日本の感覚でメイクして髪の毛を巻いて、外にでれば「今日はパーティなの?」って声をかけられるであろう!

本当に、流行はないのか?って思ってしまうのだが、実は若い子の間ではキチンと流行がある。ただ日本のように周期は短くない。

髪の毛に関しては、 元々が細くて量が少なくクセ毛でウェーブがかかっているので、真っ直ぐにサラサラで量を多く見せたいという傾向がある。パーティの時などは、コテでクルクル巻いて、ゴージャスな髪にする事もあるけれど、やはりストレートアイロンで真っ直ぐに伸ばしたいらしい。

ファッションに関しては、胸を強調させるような服、ワンピースなどが絶対的な人気である。

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いくつかのブティックを回ってみました。どれも胸が強調されるようなデザインばかりです。

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これを日本人が着ると、どうもバランスがおかしいような気がします。何が違うのかは分からないのですが、何かが違うのでしょう。

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仕事柄、日本の女性ファッション雑誌も毎月のように送ってもらい見ていますが、ここで気付いた事は、「日本は足をきれいに見せる」ように意識し、「西洋は胸や背中をセクシーに」デザインされていると思います。

我、弱ければこそ。

人の出会いと言うのは、本当に不思議なものである。
このインターネットの時代、家に篭っていても出会いはある、日本なら携帯電話一個で世界と一つになれる。
それは自分が誰とでも出会える可能性がある、ということだ。

しかし、可能性があると言うだけで、憧れの人、理想の友人、語り合える仲間と実際に出会えるかどうか確立をはじき出すと、数十億分の一の可能性かもしれない。個々の職業やライフスタイルなどの条件から計算すれば、数兆分の一の確立かもしれない。

自分がコツコツと努力を重ねて、階段を一個一個のぼって行くと、その途中にはそれぞれのステージがある。やはり頑張っている人達と一緒に時間を共有したければ、その人達と同じステージに立たなければ出会えない。だからこそ、その舞台に足を踏み入れた瞬間に、自分の求めていた理想の仲間と出会える確立はググっと一気に高くなる。

この「Junk Stageの仲間に入れて頂けるというステージ」に一段足を延ばせることができたのは、運とタイミングと自分の変わった経歴だろうか。
突然、舞い込んできた丁寧な一通のメール。それはスタッフの桃生さんからのお誘いのメールだった。丁度、自分で本を出版できないだろうかと思っていた矢先の出来事であったのもあり、偶然という言葉だけでは片付けたくない。自分のここまで登ってきた階段を振り返り見つめなおす良い機会(ステージ)を与えてくれたことに感謝感謝、である。

「我 弱ければこそ」

頑張っているとか苦労しているとか、その渦中にいると真剣に生きているので気がつく余裕などはない。「俺、今苦労してるよ」「今、頑張ってます」と言える間は、まだまだ足りないのだ。本当に苦労中は、自分の苦労など感じている余裕などないし、頑張っているよって言える間は、もっともっと頑張れるキャパが残っている証拠だ。それじゃ、いつ感じるのかと言うと、自分を振り返って、後方の足跡を目で追ってみれば、わかる。
あの時が努力していたのかも。あの時、そういや頑張っていたな。と過去の自分の情景がフラッシュバックでよみがえる。だから苦労や頑張るって、過去形と一緒に使うものだと個人的に思うのだ。

今の自分の本業は美容師である。自分は人に使われるのが嫌だから、人の上に立ちたいと思って、経営者になるために理美容業という業種を選んだのは高校3年生の秋だった。根っからの理系人間なので、工学系の大学に行きたかったが、理科は学年トップの成績を収めていても英語が常時赤点では入れる大学などたかが知れている。

自分は、弱かったからこそ、英語の勉強が必要ない理美容専門学校を選んだ。

今、自分はオーストラリアで生きている。オージースタッフと4年間一緒に働いたし、英語も勉強した。生きていくために必要なもっとも大切な道具、それが英語だったからだ。サロンに勤めて直ぐのころは、英語さえできてれば違った道に進めたのにという思いが強くあった。英語の成績が良ければ、こんな辛い修行じみたことをしなくてもいいのにと悔しい思いもした。32歳になって新たな挑戦、敵討ちの意味もあり、英語をメチャクチャ勉強した。憎らしき英語を相手に泣きながら勉強した。これは一見、強い精神力に見えるかもしれない。しかし、実は自分が弱いから、強く立ち向かう努力をしないと、自分の弱さに埋もれてしまい身動きができなくなってしまうから・・・。たった一度の人生が意味もなく終わってしまいそうで。その不甲斐ない結果だけが嫌で、コツコツと進んできたのである。いや、これからも進むであろう。

恐れ多くも、日本へ帰るたびに講演会をしたり母校で授業を開かせて頂き、大勢の人の前で話をする機会を頂いている。ブリスベンのFMラジオでは、パーソナリティもしている。しかし学生の頃はクラスの同級生の前で話をするなんてできない生徒だった、手を上げて発表するなんて考えられなかった。なぜ、こんな弱虫な子供が、今のように図々しくも人前で話をしているのだろうか。そんな自己分析もしてみたい。

人間なんて弱い生き物である。そんな思っているほど強くなんてないさ。

そんな弱さを受け止める勇気を持てて、負けないで頑張ろうって気持ちになるのだ。

僕だって、弱虫の塊。

けど、今は海外でオーストラリア人相手に仕事をしている。ブリスベンで勉強している日本人留学生を集めて起業家を育ててようとサポートしている。

「我 弱ければこそ」、僕は弱い人間だ、だからこそ負けないように頑張ろうと努力してきた。その今までの軌道をこのWebマガジンで連載していければと思う。

そしてもう一つ、日本の素晴らしさを伝えていきたい。海外から日本を見たときに、全てにおいて日本は優れていることに気づく、みんな灯台下暗しで足元が見えていないのかもしれないが、実は日本って凄いのだ!美容師の世界でも日本の技術とサービスは比べ物にならないほど精密にできている。その外の業種、全てにおいて日本は世界でトップクラスなのだ、しかし世界に通用できていない分野があるのは何故だろうか?日本の外に出て初めて知りえた事柄も、僕の視点からお伝えできればよいと思っている。

世の中で一番面白いものは「人」であり、「人生」である。ここに参加している皆さんといつの日かご一緒にお話できる日が来ればいいと願っております、どうぞ宜しくお願い致します。どうぞ仲間に入れてください。

第1話) ブリスベンで有名になる。

<2007年夏>

英語環境の中で仕事をする、外国人の中でたった一人の日本人が自分、これが5年前に掲げた目標だった。今、こうして全員がオーストラリア人、正確に言えば多国籍な英語人に囲まれている。

南アフリカ生まれでイギリス育ちのポールはサロンのオーナー。

オーストラリア生まれのフィオーナは受付と経理全般を行なう頭の切れるシングルマザー。

全国大会チャンピオンという経歴のアンソニーはコテコテのオージー訛りの英語を話す。食べ物の話をいつもしている。

アイルランド生まれでアメリカ育ちのスチュアート、世界で一番大きなヘアカラーの会社でインストラクターをして世界を飛び回っていた経歴を持つカラーリスト。

中間生のケイティはどこから見ても今どきのオージーの女の子、目がクリクリしていて、いつも笑顔で超フレンドリーだ。

見習いのマギーはスペイン人の父とアメリカ人の母を持つオーストラリア生まれの可愛らしい女の子、よくアジア人の男の子から電話番号を聞かれたりしている。

一番下の見習い生は、ニュージーランド出身のマオイ族の血を引き継いでいるトレバー、ゲイだが優しい男の子?女の子?でアジア人のお客さんからも大人気!

スタッフ全員でクリスマス・イブの朝食(2005年12月)

    スタッフ全員でクリスマスの朝食(2005年12月)

全員が個性的でフレンドリーで、外国人の僕に対しても優しく接してくれるし、日本の技術の高さも大絶賛してくれる。カットに置いて、日本と西洋ではどう違うのかを説明したり、カラーにしても、アジア人の黒髪にどうして短時間でキレイに色が入るのか首をかしげて見てるトップカラーリストと、図を描きながらディスカッションする時もあった。自分の英語力アップにも最高の環境であった。

シャンプーをすれば、誰もが「こんなラグジュアリーなシャンプーは今まで経験した事がない!」と賞賛してくれる。オーナーから「全員、このジャパニーズシャンプーをYasuから教えてもらい取得すること」とお達しが出たくらいである。

高級店なので、料金設定も高めだし、お客さんもハイクラスのマダムが多い、職業も弁護士や歯科医、女性議員までいた。学生が入るようなサロンではないところに、僕のお客さん層は思い切り学生で「貴女がこの高級店に入るの?」って顔をされましたと言う日本人のお客さんも何人かいた。

スタッフ全員がお互いの仕事を、とにかく褒め合う、お客さんの足を止めて「ちょっとYasuのカット見せて下さい」ってクシを入れ「褒める」。日本のように足を引っ張っるような妬みや嫌がらせをしたりする人はいない、みんなが気持ちよく仕事をしている。


しかし、自分の仕事は当たり前のことを当たり前にやっているだけで特別な事は何一つない。誰でも出来る事を、誰もできないくらい正直に忠実に目の前の仕事をこなしているだけである。

このような環境下で働ける僕は、運もあったが、運も実力のうちだろうと自負できる部分もある。今までの道のりをブログに付けているのだが、あまり自分の実情を並べると「あんたの自慢話は聞きたくない」と投書がくるのだが、この現状を並べないと話が始まらないので少々我慢して聞いて欲しい。


今では、ブリスベン・ゴールドコースト地区で「ブリスベン美容師Yasu」を知らない人はいないくらいの有名人になってしまった。カット料金も他より高く、予約も忙しい時期には2~3週間以上待たされる人気の美容師。

カットして欲しい人も多いが、美容師Yasuのオージーと一緒に働くまでの道のりの話が聞きたくてカットしにくる学生さん、ブリスベンの美容学校に行っているという学生さん、日本の業界紙に載っていた美容師Yasuの記事を切り取ってブリスベンにまで会いに来て、一緒に写真を撮って帰る美容師さんもいた。

日本食のレストランへ行くと「あっ、もしかして美容師のYasuさんですね!」と気がつかれ、飲み物などをサービスをしてもらい、逆にこっちはチップを払って帰るという事も珍しくない。アジア人向けの食料店で納豆を買っていれば「Yasuさんが納豆買っていた」と噂になるくらいである。(笑)

「どこどこのバス停でバスを待っていた」「あそこで写真を撮っていた」「カメラバックを背負って○○ストリートを走っていた」などなど、いろいろな人が「Yasuさん~してましたよね!」って確認を求めてくる。

先日は在ブリスベン領事館のパーティで「Yasuさんですよね!頑張ってください」って握手を求められて、さすがに照れた。自分はこの3年間で、この180万人の都市ブリスベンの日本人コミュニティですっかり有名人になった。逆に札幌へ帰省したときには、「誰も僕のことを知らない」と安心するという、芸能人が海外へ行く気持ちが分かる、逆輸入?である。


これも実は5年前の目標に掲げていた事だった。自分はこの街で有名人になるために自分で自分をプロモーションしよう。
もしYasuという名前を聞いたら、まっすぐに「美容師のYasu」という答えが出てくるようにしよう。
ある人がアジア人の留学生に「日本人はどこで髪を切っているの?」って聞かれたら「Yasu」って答えがでるくらいになろう。



自分のブランドを確立するために戦略を立てなければ・・・。どうやって自分で自分をプロモーションしていこうか、あの手この手とアイデアを紙に書き出した。

第2話) 鋏と櫛だけでは世界で通用しない

オーストラリアに来た当初は、当たり前だが誰も僕の事は知らない。普通に英語を勉強している語学学校生、日本から来た留学生である。
英語力はゼロに等しく、テキストの中で分からない単語は「殆ど全部」って感じだった。


銀行へ行っても「英語を話せる人を連れてきなさい」と怒られて口座開設してもらえず、悔しくて隣のライバル銀行へ行って開設した。


プリペイドの携帯電話を買うと、使用開始するには電話会社へ電話して、生年月日やパスポート番号などを知らせなくてはならないのだが、あまりにも僕の英語が通じないので

「ちょっと待ってて」
と言われ、そのまま受話器を机の上に置いたまま、相手はどこかに行ってしまい、僕は20分以上も電話の前で座って待っていた。

「誰か外国人なれしている担当の人が来るのかなぁ」
と思って待っていたが、結局担当者は休憩に出かけたようで、悲しさいっぱいで受話器を置いたものだ。


「こんなんで、英語を話せるようになるんだろうか?」


と切ない気持ちのまま近所の駅から、ホームステイまでのみちのりを、涙がこぼれそうになりながら歩くこともあった。


最初は子供が4人もいる大家族の中にホームステイをした。寝床もあり食うに困らず安全な場所なのだが、結構なお金を払わなくてはいけなかったので、日本にいる間に3週間だけの生活にしようと決めていた。

その三週間にした理由は…、

    最初の一週間で街の中のストリートを把握して掲示板のあるところを探す。
    二週目にはシェアメイト(同居者)募集の張り紙を探して電話をかける。
    三週目にはその部屋を見に行って契約を結ぶ。


これは案外うまくいき、デビッドという日本が大好きなオーストラリア人の家の一室を借りることができた。このデビッドとの出会いが今後の自分の進む道のキーポイントになるとは夢にも思わなかった。

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    (写真)2003年ブリスベン・サウスバンク、人口ビーチ

「なんで自分は辛い思いをしてまでオーストラリアにいるのだろう」

と自分に問いただすことが多々あった。


海外にでた理由は
「海外で生活しているアジア人と日本人のために、髪の毛で困っている人のために、自分の日本で培った技術が役にたつのであれば」
という思いで日本を離れた。

でも不安でかなり辛い。お金も無ければ、コネもない、英語力もない。


自分にとっては、どうも日本社会が理不尽におもえてならなかった。
理容室・美容室の件数は、木村拓哉が美容師を演じたドラマ「ビューティフルライフ」を切っ掛けに美容師人口が急激に増え、それから5年後10年後にはドラマの影響を受けた美容師達がサロンのオーナーになり、美容室一軒あたりの人口の比率は低下するばかり。


美容師人口が増えればスタッフを探すのも容易になり、賃金も最低賃金を守っていれば人件費を低く抑えることができるのかもしれない。
しかし、相当な経営努力は必須だし、新しい技術がどんどん出てきて、流行についていかないと周りから置いていかれるというプレッシャーがある。毎日が他店との競争だし、どれだけ日々練習して高度な技術を身につけようが、業界の安売り合戦の負のスパイラルに引きずりこまれるのが落ち。

働いても働いても儲からない図式が頭の中で見え隠れする、もっと人間らしい生活をしながら誰かのためになることはできないものか。
こんな競争の激化するであろう業界に残って戦う気にはなれないし、働いても働いても利益にならない中で自分の大切な時間を費やしたくない。人と違うことをしてここから抜け出そう!
よく言えば挑戦。悪く言えば「逃げ」なのかもしれない。


「日本にいるよりは、この辛さの方がましだ・・・、辛いが夢が広がる!」

英語さえ身に付けば、自分には技術があるのだと、いつも言い聞かせ歯を食いしばっていた。

第3話) アメリカ生活の夢を叶える

三十路に差し掛かった頃のある日、アメリカ人と結婚をした友達のお姉さんが日本へ一時帰国するとのこと。是非とも海外の話を聞いてみたく、海外の美容師事情について聞いてみた。
「本当に海外って、上手な美容師さんがいなくて、だから海外特派員とかテレビに出てくる人って、変な髪形してるでしょ」

「なるほど…、自分の次の向かう方向はこれかもしれない」

14年の日本の経験があれば…、鋏と櫛さえあれば…、自分は世界中どこにいたって生きていける。やはり昔に夢見た海外へ挑戦してみようか!でも、どうやって?
そう思っていたころ、一冊の本を手にした「アメリカ生活の夢を叶える」といったタイトルの本だったと思う。

そこに、ロサンゼルスで働く日本人美容師が紹介されていた。住所も載っていたので手紙と履歴書を送った。
「もし雇ってもらえるのならシャンプー専属でもよい、労働ビザをサポートしてくれるのなら雑用でもなんでもします。14年の経験のプ ライドは捨ててもよいです」
と手書きで便箋に向かって心を込めて書いた。

その数週間後にアメリカから国際電話がかかってきた。

「最初にアメリカの美容師免許を取らないといけない、試験を早めに申し込んで、テキストを送るから勉強しておいて。そしてビザの準備もしなくてはいけないか ら、弁護士費用と合わせて3,000ドルを国際送金で送って」
とオーナーは国際送金の仕方を教えてくれて、僕は受話器を肩に挟めながらなぐり書きでメモを 取った。


指示された通りにお金を送ったのだが、いくら待ってもテキストは届かない。電話をかけて、まだ届いていない事を告げると

「ごめんね、住所を間違えて書いて、戻ってきてしまった。もう一度送るから待っていて」

エクスプレス便で送ると3~4日で届くとのこと、しかし2週間待っても、まだ届かない。こんなやり取りが二回は続いた。

「こいつ、怪しい」

って思って、すぐに電話した

「来週、そちらに伺って、直接テキストを取りにいきます。そして弁護士費用の領収書も、その時下さい」

伺いますって言ったが、札幌からロサンゼルスだ(笑)

一週間後にはロサンゼルス行きの飛行機の中にいた。

案の定、実際に会ったらこのオーナー誠二(仮名)は挙動不審で怪しい、しかし、自分の海外行きの夢を叶えるためには、この人の手助けが必要だし、既に3,000ドルものお金を払ってしまった。

結局、テキストブックは従業員に貸し出してしまい手元にないとのこと、そんなはずないだろうと突っ込みを入れたかったが、ここは業界の上下関係の厳しさが染み付いているので、「そうですか」としか言えなかった。


尻尾をつかむために、誠二にあるお願いをした。

「ATMマシンが英語で良く分からないのですが、お金を引き出すのを手伝ってもらえないですか?」と一緒に銀行まで行ってもらった。そして自分の暗証番号を教えたのだ。

「これで、このカードの暗証番号を、このアメリカ大陸で知っているのは、自分とこの誠二だけだ」

数日後、誠二は

「ポケットにいつも財布を入れていたら危険だよ。強盗が入ってきた時に、財布も全部渡したら、あとが面倒じゃない。ポケットには20ドルくらい入れておいて、財布はここのサロンの裏側にカバンの中に入れておきなさい」

その時は確かにその通りだなと、アメリカで生活するためのノウハウかと関心し、素直に言われたとおりにした。

嫌な感は当たった。誰からも見えない場所に置いてあるカバンの中から、誠二は僕のクレジットカードを抜き出し、現金を下ろし、また財布の中にカードを戻したのだった。

すぐに日本から電話があり、カードが一日に30万円引き出されたとのこと。これを問いただすと涙を流して謝ってきた、すぐに返済するからと小切手を切って渡してくれ、銀行に持っていくと、一年以上前にクローズしていた口座の小切手だとのこと。バッド・チェックといって、これも立派な犯罪だった。

同じスタッフの里恵(仮名)もオーナーに300万円を貸していて、全く返してくれようとしないと分かった。毎月、電話が止められるから電話代を貸して欲しい。電気が止められるから電気代、追い出されるから家賃を貸して・・・・と彼女への借金が膨らんでいったそうだ。誰もが「どうして、この人はお金がないのだろう?」と不思議だった。

さらに誠二のお客さんにも、約1000万円のローンを組ませ、返済はお客さんに払わせて本人は知らん顔、このお客さんにはカット料金などを無料にしていたので、何かあるのだなと思っていたが、まさかこんな高額なローンを組まされていたとは。

結局は、このバッド・チェックとカードの盗みの二つが誠二の致命傷となり、警察沙汰になった。
スタッフの里恵のお客さんで、弁護士と市議会議員のお客さんがいたので、すぐに相談にのってもらった。さすがは議員さん、次の日には警察が来て、二人の警官が、店の表と裏口から同時に飛び込んできた。営業中にもかかわらず誠二は銃を突きつけられて手が後ろにまわった。

結局、ギャンブル中毒で、あらゆる手段と嘘をついてお金をかき集めてはカジノで全てを使っていたようだ。日本から問い合わせのあった美容師さんからも同じ手口でお金を取っては、知らぬ顔をしてお金を騙し取っていたのだった。

逮捕されてから、持ち家も財産も全て奥さんに譲り、離婚した。これで無一文の人からは損害賠償を請求しても奪い返すことはできなくなってしまったのだ。

「こいつを豚箱に入れるまで、絶対にアメリカから離れない」

第4話) LAでの裁判

アメリカのビザが切れるので、一度日本へ戻った。そしてすぐにアメリカから電話が掛かってきて、「証人としての出廷命令が出てる、ビザが発給されるので、住所を教えて欲しい」とのことだった。損失分のお金は全額戻ってくるとは思ってなかったが、アメリカの法廷に立つことができるなんて、一生に一度あるかないかのチャンス!飛行機代は実費だったが、二つ返事で行くことにした。

電話の後、数週間経って アメリカの警察からレターが届き、それを持って札幌のアメリカ領事館へ行った。丁度ニューヨークの 2001/9/11テロの直後だったので建物の周りには道警のパトカーが非常灯を付けたまま停まり、警察官が門の前に仁王立ちをして厳重な警備体制を取っていた。

領事館の入り口には、飛行機に乗る前に通るセキュリティの装置が置いてあり、手荷物を機械に通し、自分自身もゲートをくぐった。ベルトの金具に機械が反応して止められ、ボディチェックをしてから中に入れてもらえた。

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    (写真)LA市警から、僕が証人として出廷できるように、特別なビザを発行して欲しいと在日アメリカ大使館 への手紙。


実はこの裁判用のビザが5年間も出た。アメリカは3ヶ月の学生ビザを取るのにも苦労をするのに、警察からの手紙1枚であっさり5年のビザが出るのも凄い!これで労働許可もついていたら別な人生を歩いていただろう、今頃はオージー訛りではなく、アメリカンな英語を話していたに違いない。

僕はこの裁判で被害者として出廷した。アメリカのドラマに出てくるようなシーンの連続で良い経験をさせてもらった。こんな事を言ったら不謹慎だと怒られそうだが、正直言うと「楽しめた」。

自分の番が回ってくるまで、二つの裁判を傍聴できた。英語が分からないのが悔やまれたが、オレンジ色のつなぎの囚人服のようなのを着せられ、後手錠をかけられた体格のデカイ男性三人、絵に描いたような極悪犯顔で「いかにも」だ。ゾロゾロと入ってきて横並びになって裁判が始まった。

証人席では年配の男性が「車を壊されて、殴って、なんとかかんと か~」って身振り手振りで状況説明をしていた。(当時は英語が全く理解できませんでした(涙))

3~4時間傍聴したあと自分達の番になった。弁護士に連れられて入ってきた誠二は、罪状が詐欺だったからなのであろう、手錠はかけられていなかったが留置場にしばらく入っていたのでゲッソリした感じに見えた。相変わらず下から見上げるような目つきで視線は定まらないオドオドした様子だった、まるで子供が悪さをしていて、親にばれてはいないかと顔色をうかがってビクビクしている、まさにそんな感じだ。

誠二に初対面で合った時の第一印象が、堂々と振舞っているようなのだが何かコソコソしてるような感じで目が常に動いている。仕事をしている最中も、鏡越しにいつも人の顔をうかがっていて目が合ったら視線をすぐに逸らし、視線を外した後もしばらくは目が泳いでオドオドしながら仕事をしている。今思えば誠二の心中は、いつ自分犯した罪が見つかりやしないかビクビクしていたのだろう。その反面、中毒となってしまったカジノでのカードゲームが止められない、まさしく中毒患者のような目つきだった。

目の前に置かれた聖書に左手を乗せ、右手は肩のの高さに上げて、証言に嘘はないと宣誓した。映画のワンシーンのようだった。
僕の右横には黒いマントのような服を着た裁判官が少し高い席に座っている、アメリカではお決まりの星条旗が飾られていて、目の前には書記なのだろう、ブロンドのショートヘアーの似合う若い女性がラップトップのキーボードをカタカタと音をならして、皆が話している事を一生懸命に記録している。僕には通訳がついてくれて、なんと日本語を話す韓国人の禿げ上がったおじさんだった。

この通訳の日本語力にビックリした。この日本語力で僕の話すことを正確に伝えてくれるのか?凄く不安だった。自分の発言は、この韓国人にも理解できるように難しい言葉は使わないように、通訳しやすいような語順を選んで証言をしたので、えらく疲れた。裁判の途中に相手の弁護士から「通訳が正しく成されてない」とクレームが入り、この韓国人のおじさんは動揺していた。

その場で判決がでた。結局、誠二は有罪。バッド・チェックを切った分の3,000ドルを速やかに返すこと、あとは社会奉仕をすることが判決。クレジットカードを盗んで引 き出したことについては、証拠不十分で立証できなかったらしい。恐らく裏で司法取引があったのだろう、さすがアメリカだ合理的にできている(笑)

別件である、お客さんが組んだローンの1千万円、里恵さんの300万円は民事不介入の原則?で、泣き寝入りとなった。「借りたもの勝ち」なのかと悔しい思いがしたが、不服だったら民事裁判に法廷を移し続けるしかない。
実は民事裁判でもとっくに訴訟を起こしていて、スタッフの里恵さんの帰ってこない300万円も一緒にして、精神的苦痛も合わせて、約1000万円の訴訟だった。報酬制でお願いしていた弁護士には33%、里恵さんに33%、僕に33%の割合でお金を戻してもらうという配分だ。
しかし、誠二は家も車も財産も奥さん名義にして離婚した。弁護士もお金が取れないと分かってからは音信不通となった。悲しいかな、世の中ってこんなものだろう。

それにしても「同じ美容師として情けない、いや同じ日本人として情けない。」

海外にいる日本人は、みんなが燃えるような情熱を持って日本を飛び出して頑張っている人だと思ったのだが、裏切られた感じだ。
尊敬できるような日本人に出会うのが、とてもとても難しかったのだ。


第5話) 海外に幻滅した。

裁判は一日で終わったので、残りの滞在期間中に職探しをしようとLAの中にあるいくつかの日本人オーナーのサロンを回ることにした。ビザをサポートしてくれるお店を探そうと、ある美容室の日本人オーナーに会った。

「キミね、ビザがどうのこうの言ってる段階でおかしいよ、本当にアメリカに住みたいのなら、今すぐ自分のパスポートをここで破り捨てるくらいの覚悟がないと無理無理。自分だって10年前はパスポートなんで破り捨てたから」。

結局は、ビザのサポートはサロン側のリスクが大きいからできないが、僕が日本のパスポートを破り捨てて違法就労で働く覚悟があるのなら雇ってやると言わんばかりだった。

「この人、頭おかしい」率直にそう思った。

しかし、違法就労や違法滞在をしながら滞在している人、日本から追われて逃げてきたような人が思いのほか多かった。もっと夢を抱いて、目標に向かって一生懸命頑張っている人が海外には大勢いるのかと思っていたら違っていたのだ。

「と言うことは、正しいことを正しいとして進んでいけば、この大勢の日本人の上にのし上がれるかもしれない」

言葉は悪いが日本で生きていけなく海外へ逃避行している人が集まっているようにも見えた、その人達で小さなコミュニティが出来上がっている。

「あなたはグリーンカードを持っているんですか?」「労働ビザですか?」

なんて、他人のビザのタイプを聞くのはタブーと教わった。 日本人は日本人同士で集まり、英語が片言しか喋れなくても生活していける姿をこの目で見た。


丁度この2001年、プロ野球界では、イチローと新庄がアメリカに渡った年だった。この二人は大活躍をしアメリカでも英雄扱いだったのを覚えている。アメリカでプレーをしている日本人選手は、国内では満足行かずに、もっともっとと海外にて挑戦をしている素晴らしい人達だと思う。

そういや自分のアメリカ行きの話を友達や同業者仲間に話しをした時には、真っ向から反対されてものだ。
「ヤスユキ君ね、君の両親はサロンを立派に経営していて、地域でもNo1のサロンだ、しかも君は長男なんだから後継ぎだろう?実家に帰って後を継ぐべきだ!」
「君にだって大勢のお客さんが付いているし、組合の教育部に入って講師になれる人材だ、何がアメリカだ!逃げてるだけだ!」
なんて事をよく言われていた。

その度に新庄の移籍時の話を引き合いに出し、
「阪神の年俸5年12億円を蹴って、ニューヨークメッツの2200万円で契約した、新庄選手と比較するのはおこがましいですが同じことです。タイガースに5年残れば将来幹部候補だし、生活も保障されている。僕も地位や名誉も興味ありません、安定が保障されている現状維持より、給料ゼロでもいいから自分に合った環境に飛び込みたいのです、それが逃げと言われてもいいのです」。

今思えば、本当に逃げだったのかもしれない。古い組合体質が根強く残っている業界、自由と言いながらも束縛が多い、広告を出せば近所の同業者から 「お前のところだけ儲けたいのか」と電話が掛かってくる。忙しくて夜8時を過ぎてもお客さんをやっていれば道路の向こう側から、営業時間を守っているのかと視察している車が停まっている。

海外にいる日本人は、日本の妬み・僻み体質が嫌で、出る杭は叩かれ抜かれという風潮に反発したく、人間らしい気持ちの豊かな生活をしたいと夢を抱いて頑張っていると信じていた

が、しかし・・・、はっきり言って「幻滅」した。自分のように志を高く持っている人に出会えるのは非常に少ないとわかった。

このアメリカ、ロサンゼルスで二つのことが分かった。 一つは、「海外=流行の最先端」の方程式は崩れた。勤め先の日本人向けサロンの技術が、新しい日本の技術と比べると10年前で止まっていたことだ。

僕が勤めたサロンの誠二はLA在住8年目だった、しかし彼は8年もの間、日本の新しい技術を一切勉強していなかったのだろう、自分が見習いだった頃の昔懐かしい仕事が目の前にまだあった。

海外で滞在しているお客さんも長期滞在になればなるほど日本の流行に疎くなり、流行りモノを追いかけなくても良いので昔の技術の方が安心できるのであろう、いや流行を追いかけたくても、日本の情報にアンテナを張っている美容師が少ないのかもしれない。

ダウンタウンから少し離れてしまうと、アメリカ人経営のサロンでも流行とは程遠いようなサロンがゴロゴロしている。流行の先端を行っている美容室というのは、ほんの一握りだということ。平均値で計れば日本の技術の方が断然レベルが上だった。

も う一つは英語が話せないと、技術がいくら優れていても日本人客しか相手にできない。結果として自分の客層が広がらないのだ。台湾人を初めとして香港人やシンガ ポール人などは日本のスタイルが大好きで、日本人美容師にやってもらいたいから「英語の話せる」上手な日本人美容師を探す。やはり共通語は英語、言葉が離せないとコミュニケーションが取れない、 結果として仕事にならない。


新天地のオーストラリア生活を始めるにあたって、自分が肝に銘じておかなくてはならない事をLAで学んだようだった。自分の次の目標は決まった、次は仕事を辞めてでもいい、英語を取得するために日本人の友達は作らない、できるだけ日本語は読まない書かない聞かないし喋らない、日光のサルみたいだが、あのLAで生活しているのに全てを日本語で日本人コミュニティの中だけで生活しているような「海外日本人」にはなりたくなかった。

「日本人美容師」という看板を掲げている間は、海外に居ようが常に新しい日本の技術を勉強し続けなければならない、理美容師としての勉強、情報収集をストップした時点で「日本人美容師」の肩書きは外そうと心に誓った。

そして間違っても、営業中に警察に取り押さえられ後ろ手錠をはめられた誠二のような日本人美容師にはなりたくない。
2002年2月 僕はスーツケース一個で次の新天地、ブリスベンという街に降り立った。英語さえ身に付けば自分には技術がある、言葉と技術が伴えば、必ず世界中どこでも生きていける、そして特別な事はいらない

「誰でもできるような正しいこと、当たり前の事を続けていけばよい」と信じて。

第6話) 赤い英語

今の僕の英語力がどの程度なのかよく聞かれる。最近留学して来たばかりの学生などは特に気になるようで、「もうペラペラですか?」なんて聞いてきます。ペラペラというのは30歳過ぎて英語を習った僕には有り得ないと思っている。聞くところによれば、10歳を過ぎて海外で英語教育を受けても、絶対に日本語訛りが残ってしまうそうだ。

そもそもペラペラの定義って何なのかって思う。100%ネイティブのように話せるようになるのは不可能だけど、相手の言っている事を理解でき、分からない単語が出てきたら「その単語の意味はなに?」って聞くことができて、間違った文法ながらも自分を主張でき相手に理解してもらえるものがペラペラだとしたら、僕の現時点での英語力はペラペラなのだろうか。

英語を学習している人にとって、僕のバックグラウンドは興味があるらしい。「英語は昔から得意だったのですか?」とか「国語の成績はよかったのですか」とも聞かれるのだが、実際のところ学生時代の僕は、こんなに英語ができない生徒もいなかっただろうと思う。高校生になっても中学一年一学期の英語レベルで止まったままなのだ。「英語さえできれば人生が変わっていた」と何万回思ったことか。もう英語が嫌いで英語の授業は憂鬱で、宿題なんてやったことが無く、テストは記号問題しか答えれなく(山勘で当たるものだ)毎年三学期が終了しても、英語と国語の教科書は新品同様だった。これが中学と高校の6年間続いた。

天は二物を与えず、されど一物は与えてるとでも言いましょうか。理科と数学だけは得意だった、特に理科なんて一度教科書に目を通せば覚えてしまうくらいだった。クラスメイトの女の子に理科を教えて欲しいと頼まれて教えていたのだけど、その子は伝統のある進学校に合格し、自分は新設校の中流学校だった。英語がゼロというハンディは正直きつかった。

幼少の頃から変わった子供で、幼稚園児のくせにドライバーを片手に家中の家電を分解しては怒られ、与えられたのは古くなったコンセントの部分と壊れているラジオ、好きなだけ分解しろと父親が与えてくれた(笑)

小学生の頃は半田付けの練習をして鉱石ラジオを作り、トランジスタラジオを作り、アマチュア無線の免許が欲しくて無線工学を勉強していた。星が好きで、流星群の時期になると物置の屋根の上に寝転がって冬の晴れた夜空をいつも眺め、天文年間などを読んで数字が並んでいるのを見てワクワクしていた変な小学生だった。
中学になってもニュートンなんて科学専門誌を読んでいて、心から面白いと思って読んでいた。

ところが、当然であるが高校入試の時には英語で苦労する。高校入試の点数が、英語が8点、記号問題3問しか合ってなかった。その代わり理科は満点という変な点数で、足して二で割って、札幌では中レベルくらいの高校に入ることができた。ここでも英語さえできれば進学校に入れたのにという後悔の念があった。得意教科の物理は学年トップ、でも英語はいつも赤点だった。赤点を取ると通信簿に本当に赤のボールペンで「1」って書かれるのだ、そして全校生徒が出席をして校長先生の話を聞く終業式には出してもらえず、赤点保持者だけが集まる別室に呼ばれて「お前らはまだ一学期は終了していない、夏休みは学校へ来て授業を受けること!」とVIPルームへ隔離される。

統計確立なんて授業は面白くて仕方が無かった。微分積分はクイズだと思って一生懸命解いていた。
大学入試は、理科と数学だけが入試科目の大学が無いかを探した。しかしどこも必ず英語が必須で、まっ確かにこんな自分に都合の良い大学などあるわけないと思った。先生からも理科と数学だけが入試科目だったら早稲田でも慶応でも好きな大学いけるのになと嫌味を言われたこともあって、苦笑いするのが精一杯だったのを思い出す。

高校三年の10月、札幌はストーブを出す季節。一枚の資料が学校から手渡された、卒業生の進路先だった。札幌市内の某大学の卒業生は、聞いたことも無い小さなスーパーや工場へ就職が決まっているようだ。そう、これが自分が入れそうな大学のラインだったのだ。
「一生、こんな小さな会社で働いて、一生雇われサラリーマンでいいのか?」
それじゃ自分が社長になるには、どんな道があるのか。6年間勉強しなかったツケがこんな所に回ってきたと後悔をしたが後の祭りだ。

「手に職をつけて5年や10年辛抱すれば、自分がオーナーになれば経営者ではないか」

経営者の可能性を見て、技術の取得ができ、尚且つ英語のない学校へ言った。北海道理容美容専門学校、母親の卒業した学校だ。

もし、自分が英語の成績が良くて、進学校へ行き、良い大学へ進んでいたら、海外で働くことなんて無かったかもしれない。

「人生とは遠回りが実は近道だったりするんだ」

こんな英語のできなかった自分が、海外で英語の中で仕事をしている。こんなに国語の嫌いだった自分が、凄いメンバーと一緒にWebマガジンに投稿しているし、過去にも某出版社から執筆依頼があり自分の文章が数ページであるが本の中に掲載され発行された。

僕は社会人になってから本を読み、文章の書き方を勉強した。30歳を過ぎてから英語のABCを習い3単元のSを取得した(笑)。勉強に遅いなんてない、勉強したいときが始め時なのだ、年齢なんて関係ない、周りの目なんてどうでもイイ。思い立ったが吉日である。

こんなに英語が駄目駄目な生徒だったのに、文章なんて書いたことのない生徒だったのに。。。

あきらめない限り、夢は逃げない。20年後にスタートしたっていいじゃない、だって今は嫌いなんでしょ!?好きになった時にやりゃいい、好きになれるように仕向けりゃいい!
人生というのは分からない。分からない人生だから面白いのだ。

第7話) 30歳を過ぎての語学留学

「語学留学」という言葉にピクッと反応してしまう人も多いのではないでしょうか。一度は誰もが憧れる海外で英語を勉強する、そんな僕も最初は英語の学校から始めました。

今の時代、インターネットで何でも情報が入るし、無料で学校申し込みの代行をしてくれる所もたくさんある。確か当時はオーストラリア大使館に問い合わせると、学校のパンフレットを送ってくれるサービスがあった。(今でもあるのかもしれない)

インターネットをフルに利用して、自分で学校の評判などを調べて、良さそうなところを見つけて、エージェントにお金を送金した。実はこのお金を送る段階が一番緊張した。一度、裁判沙汰になっているので、この会社は大丈夫かを更に調べてからお金を送り、入学手続きをしてもらった。一切の手数料はかからずに、逆に無料なのは学校から紹介料でも貰っているからだろうって勝手に勘繰ったりしていた。

オーストラリア移民局の指定病院が札幌にもあり、そこに予約を入れ健康診断を受けた。なんて事のない身体検査と問診、レントゲン写真で2万円。いい商売だと計算してしまう自分が悲しい…(汗; ビザのスタンプをもらうのにパスポートを大使館へ送って、返送してもらうという行程もちょっと不安だったが、思ったより簡単に学生ビザが下りた。

ブリスベンの学校に決めたのは理由があって、まず一番はロサンゼルスの気候に一番近い都市だったこと。地図帳を引っ張り出し、年間平均気温、降水量、湿度、晴れている日数、そんなのを調べて、ブリスベンが一番理想に近かったのだ(笑) ゴールドコーストでも良かったのだか、どうしても遊びのイメージがあって、英語取得が第一目標の僕にとっては逆風になる気がした。

自分の語学留学する理由が「英語を身につけて、英語人と一緒に仕事をする」ということだった、オーストラリア人でもアメリカ人でもいい、英語環境の中で仕事をし、絶対に日本人の下では仕事をしないと心に決めた。アメリカの教訓がそうさせたのだ。そのためには、一時的に仕事を辞めてでもいいから語学取得に入らなくては駄目だと思った。

札幌の地下鉄麻生駅から千歳空港行きのバスに乗り、外は雪が積もっていて雪祭りの雪像を作るために自衛隊のダンプカーが新雪のキレイな雪を運んで道路を往来しているのがみえ、しばらくこの雪を見ることもないんだなと窓から見える光景をぼんやりと見ながらバスのアナウンスが流れてくる・・・。

千歳空港は国際線も発着するので、バスの中は英語でのアナウンスも流れている。この当時は何を言っているのか全く聞き取れない英語力で「こんな英語でも聞き取れるようになるのか?」と不安げだった。約1時間が経過して、千歳空港に着いた。インターネットで最安値の航空チケットが、その時はマレーシア航空だったので、成田空港からマレーシアに向かい、一泊をしてからブリスベンに向かうという空路だった。どうしてなのか遠回りをして行ったほうが飛行機代も安く、違う国で遊べるというのがお得な感じがしていた。

これからの生活を考えると、できるだけ節約しなくてはならず、マレーシアで一泊のストップオーバーも、一番安い宿をさがした、一泊500円だった(笑) シャワーは水だけでお湯は出ない。6畳間くらいのスペースに事務所にあるような鍵付きのロッカーが一個、二段ベッドが両側に二つ、誰かが一人ベッドから降りるスペースしかないくらい狭い。エアコンはあるものの、なぜか窓が開いていて熱い。スーツケースとリュック一つで日本を出た最初の夜だったが、ずいぶんとエキサイティングな街に出会ったものだ。。。

朝の屋台朝食
<マレーシアでの朝の屋台と朝食>

一日中、何処かかしらで屋台が並んでいて、100円も出せば、美味しいマレー料理をお腹一杯食べれたし、夜もチャイニーズ料理を安く豪華に食べれる。夜の出店(マーケット)では偽物のソフトやDVDなどを売っており、日本語で「部長さん!安いよ!にせものだよ!あ、ゴメンナサイ、社長さんだ!」って売っている。誰か正しい日本語を教えてやってくれ!

一泊500円のバックパッカーを後にして空港へ向かったが、これも一番安い電車とバスを乗り継ぐ方法にした。普通、日本人であればタクシーや高速バスなどを使って空港まで往復するのだろうが、マレーシアの電車に乗って、駅で乗り継ぐなんて誰もしないだろう(笑)

電車を下りて小さな駅。とんでもない田舎へ来てしまったものだ。丁度お昼時だったので、屋台は人々で賑やかだった。いや、これでも賑やかなんです(笑) 本当に寂しい村の駅って感じでした。空港行きのバスが本当に来るのか不安だったけど、エアーポートとバスという単語だけ知ってれば通じるだろう!これは英単語と言うよりは、日本語の外来語なので英語の部類に入りませんが・・・・。

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<とある村の駅前屋台、道路は砂利道、アジア人が珍しく、みんな僕を見ていた>

マレーシアからブリスベン空港に到着したのは2002年2月2日。南国の香りがして、空港の周りにはヤシの木が立ち並んでいた。語学学校の職員が学校のロゴの入ったボードを持って待っている、そのスタッフがオーストラリア人だった、自分の名前を言い、名簿にきちんと載っていて一安心。ここまで来て、あなたの名前は無いなんて言われたら笑えない(笑)

自分と同じ学校へ入学する生徒が、他に5人くらいいて、全部が日本人だった。みんなは、出身はどこ?とか、どこの学校へ行くのなど、日本語で話し始めていた。僕はできるだけ日本人と話をしたくなかったので、グループから避けて、オージーのおじいちゃん運転手と一緒に駐車場まで歩いた。僕が話せるのは「名前」「出身地」「Yes」と「No」、あとはハローやグッドモーニングなどの挨拶程度だった、それでも日本語を話す日本人と一緒にいるよりは、心地よかったので、ニコニコしながら車を止めてある場所へと向かった。

おじいちゃんが向かう車を見て驚いた!白のリムジン!こんな高級車で迎えにこなくていいから、入学金安くしてくれって心の中で叫んだ(笑) 後部座席は6人が3人+3人と向かい合わせになって座るので、日本語で話しかけられないように根暗の少年を装ってずっと外の景色をみていた。

ここから、皆がそれぞれのホームステイの家族の家まで行き、一人づつ荷物と一緒に下ろされていく。まるでドナドナのようだ。街の景色はとても緑が多い印象だった。どの家もどの家も緑に囲まれている。南国の木々の中に家の屋根や壁が覗いているような感じで自分は南の国へ来たんだという実感が沸いた。

一番最後は僕だった。と言うことは街から遠い場所なんだろう。ホストファミリーはリムジンに乗ってきた日本人学生にビックリしていた様子だった。ホスト・ファザーとマザー、子供が2歳4歳6歳8歳と、キレイに偶数歳でした。マレーシア滞在と早朝の飛行機で疲れきった僕は、自分の部屋に案内されて、そのまま寝てしまった。

こんな語学留学から始まったオーストラリアでの第一歩。

目標は英語の取得。そして英語人と仕事をする。そしてブリスベンで名前を売る。

その基盤はやはり英語だった。これからも日本人を避ける日々が続いた。