我、弱ければこそ。

このコラム「われ、弱ければこそ」は2008年12月から2010年7月までの約2年間、週刊Web Magazine JUNK STAGEにWriterとして投稿していたものです。

人の出会いと言うのは、本当に不思議なものである。
このインターネットの時代、家に篭っていても出会いはある、日本なら携帯電話一個で世界と一つになれる。
それは自分が誰とでも出会える可能性がある、ということだ。

しかし、可能性があると言うだけで、憧れの人、理想の友人、語り合える仲間と実際に出会えるかどうか確立をはじき出すと、数十億分の一の可能性かもしれない。個々の職業やライフスタイルなどの条件から計算すれば、数兆分の一の確立かもしれない。

自分がコツコツと努力を重ねて、階段を一個一個のぼって行くと、その途中にはそれぞれのステージがある。やはり頑張っている人達と一緒に時間を共有したければ、その人達と同じステージに立たなければ出会えない。だからこそ、その舞台に足を踏み入れた瞬間に、自分の求めていた理想の仲間と出会える確立はググっと一気に高くなる。

この「Junk Stageの仲間に入れて頂けるというステージ」に一段足を延ばせることができたのは、運とタイミングと自分の変わった経歴だろうか。
突然、舞い込んできた丁寧な一通のメール。それはスタッフの桃生さんからのお誘いのメールだった。丁度、自分で本を出版できないだろうかと思っていた矢先の出来事であったのもあり、偶然という言葉だけでは片付けたくない。自分のここまで登ってきた階段を振り返り見つめなおす良い機会(ステージ)を与えてくれたことに感謝感謝、である。

「我 弱ければこそ」

頑張っているとか苦労しているとか、その渦中にいると真剣に生きているので気がつく余裕などはない。「俺、今苦労してるよ」「今、頑張ってます」と言える間は、まだまだ足りないのだ。本当に苦労中は、自分の苦労など感じている余裕などないし、頑張っているよって言える間は、もっともっと頑張れるキャパが残っている証拠だ。それじゃ、いつ感じるのかと言うと、自分を振り返って、後方の足跡を目で追ってみれば、わかる。
あの時が努力していたのかも。あの時、そういや頑張っていたな。と過去の自分の情景がフラッシュバックでよみがえる。だから苦労や頑張るって、過去形と一緒に使うものだと個人的に思うのだ。

今の自分の本業は美容師である。自分は人に使われるのが嫌だから、人の上に立ちたいと思って、経営者になるために理美容業という業種を選んだのは高校3年生の秋だった。根っからの理系人間なので、工学系の大学に行きたかったが、理科は学年トップの成績を収めていても英語が常時赤点では入れる大学などたかが知れている。

自分は、弱かったからこそ、英語の勉強が必要ない理美容専門学校を選んだ。

今、自分はオーストラリアで生きている。オージースタッフと4年間一緒に働いたし、英語も勉強した。生きていくために必要なもっとも大切な道具、それが英語だったからだ。サロンに勤めて直ぐのころは、英語さえできてれば違った道に進めたのにという思いが強くあった。英語の成績が良ければ、こんな辛い修行じみたことをしなくてもいいのにと悔しい思いもした。32歳になって新たな挑戦、敵討ちの意味もあり、英語をメチャクチャ勉強した。憎らしき英語を相手に泣きながら勉強した。これは一見、強い精神力に見えるかもしれない。しかし、実は自分が弱いから、強く立ち向かう努力をしないと、自分の弱さに埋もれてしまい身動きができなくなってしまうから・・・。たった一度の人生が意味もなく終わってしまいそうで。その不甲斐ない結果だけが嫌で、コツコツと進んできたのである。いや、これからも進むであろう。

恐れ多くも、日本へ帰るたびに講演会をしたり母校で授業を開かせて頂き、大勢の人の前で話をする機会を頂いている。ブリスベンのFMラジオでは、パーソナリティもしている。しかし学生の頃はクラスの同級生の前で話をするなんてできない生徒だった、手を上げて発表するなんて考えられなかった。なぜ、こんな弱虫な子供が、今のように図々しくも人前で話をしているのだろうか。そんな自己分析もしてみたい。

人間なんて弱い生き物である。そんな思っているほど強くなんてないさ。

そんな弱さを受け止める勇気を持てて、負けないで頑張ろうって気持ちになるのだ。

僕だって、弱虫の塊。

けど、今は海外でオーストラリア人相手に仕事をしている。ブリスベンで勉強している日本人留学生を集めて起業家を育ててようとサポートしている。

「我 弱ければこそ」、僕は弱い人間だ、だからこそ負けないように頑張ろうと努力してきた。その今までの軌道をこのWebマガジンで連載していければと思う。

そしてもう一つ、日本の素晴らしさを伝えていきたい。海外から日本を見たときに、全てにおいて日本は優れていることに気づく、みんな灯台下暗しで足元が見えていないのかもしれないが、実は日本って凄いのだ!美容師の世界でも日本の技術とサービスは比べ物にならないほど精密にできている。その外の業種、全てにおいて日本は世界でトップクラスなのだ、しかし世界に通用できていない分野があるのは何故だろうか?日本の外に出て初めて知りえた事柄も、僕の視点からお伝えできればよいと思っている。

世の中で一番面白いものは「人」であり、「人生」である。ここに参加している皆さんといつの日かご一緒にお話できる日が来ればいいと願っております、どうぞ宜しくお願い致します。どうぞ仲間に入れてください。

第1話) ブリスベンで有名になる。

注目

<2007年夏>

英語環境の中で仕事をする、外国人の中でたった一人の日本人が自分、これが5年前に掲げた目標だった。今、こうして全員がオーストラリア人、正確に言えば多国籍な英語人に囲まれている。

南アフリカ生まれでイギリス育ちのポールはサロンのオーナー。

オーストラリア生まれのフィオーナは受付と経理全般を行なう頭の切れるシングルマザー。

全国大会チャンピオンという経歴のアンソニーはコテコテのオージー訛りの英語を話す。食べ物の話をいつもしている。

アイルランド生まれでアメリカ育ちのスチュアート、世界で一番大きなヘアカラーの会社でインストラクターをして世界を飛び回っていた経歴を持つカラーリスト。

中間生のケイティはどこから見ても今どきのオージーの女の子、目がクリクリしていて、いつも笑顔で超フレンドリーだ。

見習いのマギーはスペイン人の父とアメリカ人の母を持つオーストラリア生まれの可愛らしい女の子、よくアジア人の男の子から電話番号を聞かれたりしている。

一番下の見習い生は、ニュージーランド出身のマオイ族の血を引き継いでいるトレバー、ゲイだが優しい男の子?女の子?でアジア人のお客さんからも大人気!

スタッフ全員でクリスマス・イブの朝食(2005年12月)

    スタッフ全員でクリスマスの朝食(2005年12月)

全員が個性的でフレンドリーで、外国人の僕に対しても優しく接してくれるし、日本の技術の高さも大絶賛してくれる。カットに置いて、日本と西洋ではどう違うのかを説明したり、カラーにしても、アジア人の黒髪にどうして短時間でキレイに色が入るのか首をかしげて見てるトップカラーリストと、図を描きながらディスカッションする時もあった。自分の英語力アップにも最高の環境であった。

シャンプーをすれば、誰もが「こんなラグジュアリーなシャンプーは今まで経験した事がない!」と賞賛してくれる。オーナーから「全員、このジャパニーズシャンプーをYasuから教えてもらい取得すること」とお達しが出たくらいである。

高級店なので、料金設定も高めだし、お客さんもハイクラスのマダムが多い、職業も弁護士や歯科医、女性議員までいた。学生が入るようなサロンではないところに、僕のお客さん層は思い切り学生で「貴女がこの高級店に入るの?」って顔をされましたと言う日本人のお客さんも何人かいた。

スタッフ全員がお互いの仕事を、とにかく褒め合う、お客さんの足を止めて「ちょっとYasuのカット見せて下さい」ってクシを入れ「褒める」。日本のように足を引っ張っるような妬みや嫌がらせをしたりする人はいない、みんなが気持ちよく仕事をしている。


しかし、自分の仕事は当たり前のことを当たり前にやっているだけで特別な事は何一つない。誰でも出来る事を、誰もできないくらい正直に忠実に目の前の仕事をこなしているだけである。

このような環境下で働ける僕は、運もあったが、運も実力のうちだろうと自負できる部分もある。今までの道のりをブログに付けているのだが、あまり自分の実情を並べると「あんたの自慢話は聞きたくない」と投書がくるのだが、この現状を並べないと話が始まらないので少々我慢して聞いて欲しい。


今では、ブリスベン・ゴールドコースト地区で「ブリスベン美容師Yasu」を知らない人はいないくらいの有名人になってしまった。カット料金も他より高く、予約も忙しい時期には2~3週間以上待たされる人気の美容師。

カットして欲しい人も多いが、美容師Yasuのオージーと一緒に働くまでの道のりの話が聞きたくてカットしにくる学生さん、ブリスベンの美容学校に行っているという学生さん、日本の業界紙に載っていた美容師Yasuの記事を切り取ってブリスベンにまで会いに来て、一緒に写真を撮って帰る美容師さんもいた。

日本食のレストランへ行くと「あっ、もしかして美容師のYasuさんですね!」と気がつかれ、飲み物などをサービスをしてもらい、逆にこっちはチップを払って帰るという事も珍しくない。アジア人向けの食料店で納豆を買っていれば「Yasuさんが納豆買っていた」と噂になるくらいである。(笑)

「どこどこのバス停でバスを待っていた」「あそこで写真を撮っていた」「カメラバックを背負って○○ストリートを走っていた」などなど、いろいろな人が「Yasuさん~してましたよね!」って確認を求めてくる。

先日は在ブリスベン領事館のパーティで「Yasuさんですよね!頑張ってください」って握手を求められて、さすがに照れた。自分はこの3年間で、この180万人の都市ブリスベンの日本人コミュニティですっかり有名人になった。逆に札幌へ帰省したときには、「誰も僕のことを知らない」と安心するという、芸能人が海外へ行く気持ちが分かる、逆輸入?である。


これも実は5年前の目標に掲げていた事だった。自分はこの街で有名人になるために自分で自分をプロモーションしよう。
もしYasuという名前を聞いたら、まっすぐに「美容師のYasu」という答えが出てくるようにしよう。
ある人がアジア人の留学生に「日本人はどこで髪を切っているの?」って聞かれたら「Yasu」って答えがでるくらいになろう。



自分のブランドを確立するために戦略を立てなければ・・・。どうやって自分で自分をプロモーションしていこうか、あの手この手とアイデアを紙に書き出した。

第1話) 海外で髪を切った事ありますか?

海外で生活した人であれば、一度は経験するかもしれない海外の美容師さん(ここではヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアなど西洋の美容師さんを‘海外の美容師’と称します)のテクニック。誰もが声をそろえて「海外の美容師さんは日本人の髪を理解していない」と言う。

「絶対に写真どおりにはならない」
「パッツンと前髪を切られた」
「これ以上は梳けないと言われて全然梳いてくれない」
「パーマをかけたら大昔のクルクルパーマになってしまった」
「カラーをしたら地肌がヒリヒリと耐えられない痛さだった」
などなど、上げればきりがない・・・。

本当に海外の美容師は下手なのだろうか、日本人だったら全員が上手なのだろうか、アメリカも含め海外で8年働いて見て聞いて感じた事、その中で実際に約4年間オージーと一緒に働いた経験、そしてオーストラリアの専門学校の美容師科で学んだ1年を、日本の専門学校とサロンとを比べながら語っていきたい。

Hairdressing コース
<オーストラリアの美容師科、授業風景>

まず、日本人の髪質と西洋人の髪質が全く別物である。本当に全然違うのだ。1本の毛の直径が、西洋人が0.03ミリに対して、日本人の毛は0.09ミリと三倍も太い、コレは実際に僕がオーストラリアの専門学校で、クラスメイトの白人の女の子の髪が0.03mmで僕の髪は0.09mmだったので間違いない。僕の髪は日本人の中では太い方ではないので、もっと太い人はたくさんいるはず。と言う事は、4倍も5倍も日本人の髪の方が太いのである。

西洋人の、この細くて柔らかい毛なので、どんなに短く切っても寝てくれる。日本人の髪だったらツンツンに立つような髪も、きれいに寝てくれるのだ。カットが下手でも収まってくれるし、ブローが下手でも寝てくれる。しかし日本人の髪では、計算して切らないとブローもできなくなってしまうし、ダンダンの虎刈りカットになってしまうのだ。

クラスメイト全員
<一年間、共に授業を受けたクラスメイト>

この柔らかくて自由自在に動きそうな西洋人の髪だが、薬液の浸透や熱の伝導などはアジア人より効き目が悪い。最初は髪にコシがないから?なんて思ったのだが、そんなレベルじゃなく形がつかない、カラーも色が入らないし、パーマも油断すると全然かからない。硬くて手ごわそうな日本人の髪の方が短時間で形がつき、見た目が柔らかくて壊れそうな毛の西洋人の髪は全然形がつかない。

これは、キューティクルの厚みが違うのと、輪切りにしたときの断面の形が違うからである。まず西洋人のキューティクルの割合が、「毛の40%がキューティクル」に対し、アジア人の毛は「10%程度しかキューティクルに囲まれてない」。

アジア人の直毛の髪を輪切りにしたら金太郎飴のように「きれいに丸を描いている」。その反面、西洋人の髪は殆どがクセ毛でウェーブがついている、と言う事は「輪切りにした時に楕円形」なのである。髪を真っ直ぐにしたりウェーブにしたりと、形を司る結合体は毛の中心部にあるので、西洋人の髪はなかなか中心まで届かないのだ。

この髪の太さと硬さ、キューティクルの多さと輪切りの断面、それプラス文化と美的感覚の違いによって上手が下手かを判断されるので、どこで美容師としての教育を受けたかでその技術者の評価が変わる。

日本人には日本人の髪質と骨格、そして日本の美的センスに合わせた理論を習い技術を取得する。西洋は西洋人に合ったカット技法と理論が確立されている。

そういえば、金髪で可愛らしいオーストラリア人の女の子が日本に滞在し、日本の美容室へ行って酷い目に合ったと話を聞いた。

「どうして日本の美容師はあんなに下手なの?」
「2cmだけ切って欲しいとお願いしたのに、切った後に信じられないくらい梳いたの」

とカットが終わってから一週間は外に出れなくて泣いていた…という女の子にも出くわした事があった。

この第二章では、カット、パーマ、カラー、縮毛矯正、シャンプーなども含めて、何がいったい海外と日本では違うのかを、分かりやすく理論的に説明していこう。

第2話)日本とオーストラリアの教育の違い。

専門学校レベルでのオーストラリアの教育は、日本より優れている所あるように思えた。豪州では州立と私立とに分かれ美容師科があり、Certificate(資格)を取るためには現場で4年の見習い期間を、週に4日働きながら、そして週に一日だけスクーリングに通う方法。そしてフルタイムで1年間のコースに通って、卒業するとCertificateがもらえて、見習い3年生として就職する。よって学校を卒業してから2年は見習い期間を得て、Qualified Hairdresserを取得する。もしくは学校を卒業と同時にTRAという審査機関の試験を受けて飛び級のように一発試験でQualificationを取得してもよい。

 

僕が通っていた州立のHairdressingコースは、全員オージーの生徒と先生の中、僕だけが留学生でアジア人だった。やはり英語での授業は厳しいものがあるし、ちょっとしたコミュニケーションのミスでとんでもない事故に繋がる可能性もあるので、日々緊張感を保って授業を受けていた。日本で経験が10年以上あっても、英語環境になるとこれほどまで大変なのかと感じたので、もし経験のない留学生は、英語の授業をどこまで理解をしているのか、そうとう大変だろう。

 

一 年コースのうち、前半の半年間は理論を習う。モデルウィッグを中心に、カット、カラー、シャンプー、セット、ブロー、パーマなどを習う。アサイメント(レ ポート提出)も頭皮の皮膚疾患についてリサーチをしてレポートをまとめたり、カラー剤の種類と用途についてエッセイを書いたりした。これは日本語でなら全 て理解していることなので難しいことではなかった。

 

ただ、習練するという感じではなく同じことは二度とやらない。先生が一度デモストレーションを行い、それを生徒が真似をして実際にモデルウィッグで行い、先生が注意をしながら要所要所を教えて終わりという感じだった。シャンプーも先生が一度見せてくれるが、あとは生徒同士がお互いにモデルになってやり合いをして終わり。なので数時間しかシャンプーもしない。全てがそんな感じなので、家に帰ってから復習をかねて自分で練習をしていないと、あとが大変だと思うが、誰もやっていないだろう(笑)。

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州立のHairdressingコースは、週に三日の授業だったので、どこかのサロンで見習いとして働きながらも通える。逆に残りの4日を遊んでいると後半の半年間が苦労するでしょう。

 

僕 が受けた日本の教育は、皮膚科学、解剖学、香粧品科学、伝染病学、公衆衛生学、そして物理と化学があり、もちろん椅子に座って授業を受けていた。しかし こっちは、そのような椅子に座って行う授業というのは、カットやカラーの実技に入る前に行う理論を少しやるだけ。90%が実技中心のカリキュラムであった。


後半の半年は実践。学校内にサロンがあり、そこでお客さんが実際に予約をいれて、カウンセリングをして、お金を頂くという、大学付属病院のような?形態である。生徒は、かかっ てきた電話を受け取り予約を入れ、予約の前日にはコンファーム(確認)の電話を入れてお客様に忘れられないように来てもらう。予約の時間に来たお客さんを案内し、オーダーを取り、そのオーダーの内容を先生に口頭で伝え、「だから自分は何をこれからするのか」を図入りで説明をして「GO」をもらってスタートする。

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それが、終了すると、先生が全てチェックをして合否を決められる。毎日が試験なのである。ワンレンを3つパスするとワンレンの単位を取得、それをレイヤー、 グラデーション、カラーも永久染毛材、半永久、パーマはロング、ショート、そしてセット、から縮毛矯正、メンズカット、シェービング、ひげのカットまで、 ほぼ3回ずつパスしないと単位が取れなく卒業できない。現に同級生の半数は卒業できなくて留年してしまった。

 

前半のウィッグで練習している時から、反復練習を自分でおこなっていないと、この後半の実地訓練の時に怖くてお客さんに触れない。しかしメンズのお客さんなんて、生徒数×3人も来ないし、取れる単位はできるだけ早く取っておかなければ卒業できない。

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オーストラリアの学校教育の良いところは、実践を体験できて、いち早く現場になれることができる。しかし悪い所が、卒業したら「私は一人前のHairdresser」と向上心をわすれてしまうところである。

 

日本の教育の悪い所は現場を体験する機会が非常にすくなく卒業してサロンに就職するところか もしれない。生身の人間、しかも全くの他人の髪に触れると言う経験をしないで現場に立つと、ものすごい緊張感とストレスだろう。しかし、その反面、理論的 には深い所を知っているし、先生も「学校出たくらいでは使い物にならない」と言ってくれるので、サロンに立ってからがスタートラインと気づいている。

 しかし、全ての勝負が現場である。その現場のモチベーションの違いが日本のレベルの高さを物語っているようだ。

第3話)日本とオーストラリアの現場教育の違い。

自分が日本で見習いをやっていた時は、寮生活をしていたので、限りなく練習する環境にあった。朝99時まで営業だったので、8時半までにはサロンに入れるように出勤をし、冬場は駐車場の雪かきがあるので7時半にはサロンに入り準備をする。9時にはお客さんが入ってくるので、休む暇などなく夜まで仕事、ランチタイムなどは5分あればラッキー。夜855分にパーマなんていうのもあり、そうなると夜の11時過ぎまでお客さんがサロン内にいる。原則、サロンの中にお客さんがいる時は、掃除や洗濯機は回せない。ひたすらお客さんが終わって帰られるのを待ち、やっと掃除と洗濯を開始できる。それから練習を行い、終わったら、もちろん深夜の1時や2時だった。

 

休日の前の日は、朝まで練習ができるので、朝刊が来るまで練習をし、朝ごはんを食べてから寮に帰って寝る。そして夕方にサロンに戻り練習してから翌日のサロンの用意をして一週間の始まりを待つ。

 

一週間の練習時間は20時間を越えていた。休み無しの365日の練習だった。


 

オージーのサロンを見てみると。。。営業時間が朝9時からだとスタッフは朝9時丁度にサロンに入る。見習いの子でも、10分前に来れば良いほうだ。朝一番のお客さんがサロンのドアの前で待っている事も珍しくない。夕方5時には閉店なのだが、閉店と言う意味は5時に鍵を閉めて帰るという意味だから驚く。

 

練 習会などは、週一で行なっているサロンはあるけれど街でもトップサロンだ。誰もが簡単には働けないしオーディションを受けてからじゃないと雇ってもらえな い。そんな高級サロンでも練習会となれば1週間に2時間程度のものだろう。美容師見習いでも「仕事」と割り切っているのでサロンは技術を学ぶ場所ではな い、給料をもらう場所なのである。中にはモチベーションが高くて、練習するスタッフもいるが営業時間中だ。

 

本気でカラーを覚えたい子は、ウエラやシュワルツコフなどがメーカーで教室を開いているクラスにお金を払って参加して学ぶ。カットを覚えたいスタッフは、お金を払ってトニー&ガイや、メーカー主催のカット教室に参加をして技術を学ぶ。サロン内では教えてくれないからだ。

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<メーカー主催の講習会>

日本は低く見積もっても一ヶ月に60時間の練習時間。

オーストラリアは、高く見積もっても一ヶ月に12時間の練習。

 

日本のスタイリストは、5年で一人前と言われる(個人差はあるが)。5年でカット、カラー、パーマ、縮毛矯正やエクステなど、殆どの技術を取得できる。

 

もし、オーストラリアの練習のスピードで日本の5年経験のスタイリストに追いつくには、

最低でも25年はかかる計算になる

60時間/月 x 60ヶ月(5年)=3600時間

12時間/月 x 300ヶ月(25年)=3600時間

 

こっちでは、カットしかやらないカッター。カラー専門のカラーリストと分担制になっているケースが多いのだが、全部できるようになるなんて彼らの練習時間では無理なので、カットだけをひたすら取得し、またはカラーだけをとことん勉強して・・・と言うのが精一杯なのである。

 

僕 がオーストラリア人のサロンで働いていた時に、他のカラーリストやカッターの同僚に言われていた言葉が、「お前のように全部の仕事できる奴なんて、本当に 珍しいんだよ。そんな奴は見たこと無い」と、よく言われたが、日本では当たり前なので喜べない。逆に全部仕事ができるのに、肩書きが格好良いからなのか、 カラーリストを置いているサロンを日本国内で耳にするが、それがお客さんにとって何のメリットなのが、個人的には疑問である。外国のカラーリストは、全部 仕事を覚えるのが無理だから仕方が無いという理由もあってのカラーリストなんだが、日本の良いものが間違ったイメージで崩れていくのは心配である。

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 <営業中に練習をする>

日 本の美容師さんは休日でも講習会、講演会、教室、コンクールなど、休日は全て返上して技術向上のために走り回っているが、こっちでは、そんなことする人は 1%もいるのだろうか?休日は自分のために使うものなので、仕事はあくまでも週に38時間だけ。日本の美容師事情を話ししたら誰もが「クレイジー」という (笑)

 

日 本人が海外の美容師学校へ行き、現地のサロンで働いて技術を取得しようとする人も多いが、日本人のカット理論は習わないし練習や勉強する環境が整っている のか疑問である。将来、日本人を相手に仕事をするのであれば(場所は海外でもどこでもいい)日本国内でしっかりとした技術を学んでおかないと、海外には日 本の技術を学べる場所がない。

 

中にはバイリンガルで、日本人をターゲットとしないでも白人相手に仕事をすると決めた人は、海外の数少ない有名店で働くのを目指し、日本の理論を学ばずに西洋の理論を取得して勝負するのもよいが、やはり英語力がカギとなるであろう。

 

理美容に限らず、どの分野でも日本のクオリティは世界一である。その世界一の技術を学べる日本でしっかりとできない人は、中途半端で海外に出ても、結局は中途半端になってしまう。

第1話) 全て中途半端な子供時代。

海外で働いている人を見たり聞いたりすると、「生まれつき素質があったんだろう」とか、「子供の頃から、クラスで飛びぬけて目立つ存在だったのだろう」と か思いがちである。他に海外で活躍している人達はどうだったのか分からないが、自分の場合は目立たない普通の子供だった。

幼少の頃は近所 のガキ大将に叩かれて泣いて家に駆け込むような子供だったし、女の子とママゴトをしている方が楽しかった。野蛮な事は好きではなく、木登りとか鉄棒でさえ も怖くて登れないような男の子。自分から「○○ちゃん、遊ぼう!」と友達の家に行くことができず、行くくらいなら一人で遊んでいた方が楽しいという子供 だった。

だからと言って、絵はかけない。図画工作は大嫌い。粘土の時間でヘビを作って先生に怒られたくらいだ。夏休みの自由研究は最悪、 こんなものは世の中から消えてくれと子供ながらに毎年思っていたし、宿題はやらない、できない、作文は3行以上書いた事がない。感想文なんてもってのほ か。

それじゃ、運動神経は?と言いたいところだが、サッカー少年団に10歳の時に入ったきり、これまたチームメイトから虐められて辞めてしまった。足は遅い、鉄棒できない、球技もボールを持って何をしていいかわからず、回りから罵声を浴びる。

自 分の胸の骨は奇形なので、普通の人よりも肺活量が少なく、心臓の位置も中心より外側にずれていて肋骨に圧迫されているので、普通の子供よりも運動量はどう しても少なくなる。漏斗胸といって、胸の溝が普通の人より窪んでいるのだ。何らかの理由で体の骨より肋骨だけが先に伸びてしまい、後から体の骨が成長する ので長い肋骨は内側に食い込んでしまうという1000人に1人の割合で起こる先天性の奇形だとか。

運動音痴、芸術性なし、社交性なし、虐められっ子。唯一人よりできたものは珠算2級、書道5段(小学生の部)。そして興味があったものは、電気工学と天文学という変な子供(笑)でも成績はいつも中の中。

他 の児童より計算が速くできたのだが、小学校高学年の算数のテストの時、暗算で答えがでてきちゃうので途中の計算式を書かないで提出したところ、先生から 「隣の学級委員長の答えをカンニングしただろう、A男と同じ答えだ」と頭ごなしに決め付けられ、言い返す事もできずに0点だった事もあった。

虐められていることを先生に訴えても、「甘えるな、お前が悪い」とクラス全員の前で怒鳴られたり。「授業中にお喋りするから、お前の唇はどんどん分厚くなっているんだ」とか、小学校の先生からも虐めの対象になっていた。

子供ながらにも「こんな大人になりたくない」、親の前では良い顔をして、子供の前ではコロリと変わる。この頃から、きっと表裏のある人間が嫌いになったのだろう、今でもこのタイプの人間は好きにはなれない。

中 学校に入学すると、一年生の1学期で勉強は挫折。落ちこぼれの仲間入り。タバコの味も覚え警察から呼び出しが来たこともあった。バスケ部に入るも1年経た ずに退部、集団行動が苦手だった。何をやっても中途半端。将来の夢なんて、そんなの無かった。今思えば勿体ない少年時代をすごした。

中学卒業、高校入学を境目に何かを変えなくてはと、ボンヤリ思っていたのかもしれない。

つづく。。。

第2話) 一人っ子の6年間。

前回の投稿から章が変わって、第一話が始まったのですが、周囲からは予想以上の反響がありまして、余りにも今とのギャップがありすぎると。そこで、もっと子供時代を振り返って自分の半世紀を記したいと思いました。今回は6才までの自分の環境を思い出しながらです。

僕 の母方の祖母が他界してから丁度一年後に僕が産まれました。親戚の叔父さん叔母さんは、僕を見るたび「生まれ変わり」だというくらい、顔の骨格、目の大き さ、足の指の形まで、まるで生き写しだといいます。お婆ちゃんは40歳代でなくなったので仏壇に飾ってある写真は「お婆ちゃん」の姿とは程遠く「お姉さ ん」です。自分が女装したらこんなふうだろうというくらい似ている。

父親は理容師、母親は美容師。夫婦でサロンをオープンして直ぐに産ま れた子供が僕だったから、仕事と子育ての両立でそれは大変だっただろうと今だから少しは分かる。それに加えて、身体が弱く、赤ちゃんの時の自分の写真はと いうと、頭は包帯でグルグル巻き。瘡蓋(かさぶた)で覆われた皮膚病の頭皮を治療していたらしい。乳幼児がかかる病気という病気は全てかかり、いつも病院 へかかっていた。商売を始めたばかりの両親に、なんて親不孝な子供だったと思う。

保育園にも一時は通っていたみたいだが、身体が弱くて数ヶ月たらずで中退。もし履歴書が生まれた時から全て記載しなければならないルールだったら、「苗穂厚生会保育園 一身上の都合で中退」と書かなくてはならなかっただろう(笑)

3 歳の時は肺炎で入院。親戚のおばさんがお見舞いに持ってきてくれたスイカで命拾いしたとか?当事の病棟は今でも覚えている。面会時間が終わると母親は家に 帰る、目が覚めると一人ぼっち、泣いて「ママー、ママー」と叫びながら病室を出るけど、もう誰もいない、外は暗くなっている。どのくらい入院したのか覚え ていないが、また1人ぼっちという寂しい気持ち、空虚さは今でも覚えている。

「また一人ぼっち」。物心付いた時から親はお店で仕事、お腹がすいて泣きながら親を求めてお店にでても、「お客さんがいるから来るんじゃない」と言って、バタンとドアを閉められる。どんなに泣き叫んでママを呼んでも、お客さんがいなくなるまではドアが開く事は無かった。

そ して同じく3歳の頃、ストーブの上に乗っかっていた熱湯が両足の上に落ちてくるという事故が起きた。さすがに親はお客さんを置いて病院へ。縮みあがった両 足の皮をピンセットで引っ張るという治療が半端でなく痛く、両手両足を押さえつけられて治療台の上で絶叫している自分の姿は今でも思い出す。

今でも火傷の影響で足の毛は生えていなく、太ももの裏はケロイドが残ったまま。しかし、当事の医療技術で、ここまでキレイに再生されているのはすごいと思う。札幌の入江外科という名前は忘れずに感謝している。

身体が弱く保育園も通えなく、1人でいる時間が多かった子供だったので、やはり1人遊びを覚える。興味があったのはコンセントとプラグ、ネジ、ナットとボルト、そして昆虫やクモやミミズなどの生き物だった。

4 歳5歳でドライバーの使い方を覚え、家の中のネジというネジを全部外して回った。父親は仕事が終わると、家の中のネジを閉めて回ったそうだ(笑) ケーブ ルが二本いつも隣り合わせなのは、コンセントが二つだからと理解していたし、そのケーブルを二つ重ね合わせたらどうなるか疑問に思ってやってみたら火花が 散った瞬間に家の電気が真っ暗になった。ブレーカーが落ちたのだ(笑)触ったらどうなるかもやってみたら、全身がしびれてビックリした、4歳で既に感電を 味わっていたのだ(笑)

親が聞いたら怒られるかもしれないが、わが家は裕福ではなく、おもちゃなども飽きるほど買ってもらえるような家では なく、周りにあるもの全てが僕にとっての「おもちゃ」。工夫をすれば何でもおもちゃになる。一歩外にでると、色々な虫たちがいる、土を掘ればミミズ、石を どければワラジ虫やらクモなど、全部捕まえて牛乳瓶に詰め込んで・・・という人間の本能の狩猟?というのを、飽きもしないでコツコツやっていた子供だっ た。と同時に一人ぼっちじゃない、他の生き物と一緒という安心感もあったはずだったに違いない。

物があふれていたわけでもなく、世話をしてくれるお婆ちゃんがいるわけでもなく、ドア一枚向こう側では両親がサロンで一生懸命仕事をしている。なのに反対側では僕はいつも1人ぼっち。今日のおもちゃになるものは無いかと探している。

5 歳になり、やっと幼稚園に入園できた。しかしこの5年間1人で遊んできた子供が、いきなり集団行動の中に入れるはずもなかった。同じ園児服を着て、好きで もない絵をかかされ、粘土でモノを作るなんて、凄いキライな時間だった。大嫌いな親子遠足、うちの両親は仕事している。代わりに父方のお婆ちゃんが一緒に 親子遠足へ。全体写真に残っているのは、僕だけがお婆ちゃんと一緒。皆はママが来てくれているのに、僕だけどうしてお婆ちゃんなの?答えは「ママはお仕事 があるから」。

既にこの頃から、自分の一匹狼的な性格が出来上がっていた。そして無いものは工夫して活用するというのも覚えた。一人でも十分に楽しめるし、みんなと同じ事をするのが嫌な性格の基盤は5歳までに出来上がっていた。

6 才の誕生日を迎えた10月24日。全く同じ日に弟が産まれた。この日は僕の一人っ子に終止符を打ってくれた記念すべき日でもある。この弟の存在というの が、今の自分の「リーダー論」の原点を教えてくれた。人への「愛情のかけかた」を教えてくれた。とても大切な一生の出来事だったと振り返ると思える。

第3話) 弟

6才下の兄弟で、誕生日が全く同じ日というのは、かなり珍しいであろう。通常、帝王切開ではなく自然分娩で、誕生の日を狙って狙えるものではない(笑)

そんな弟の誕生を、今か今かと待ち望んでいる。その時のウキウキと心待ちだった感情は今でも脳裏に焼きついている。母親が「今、お腹の赤ちゃんが足を動かしているの、手で撫でてあげると足を引っ込めるの」と教えてくれていた。母親のお腹に手をあてながら「ふーん」と、とても不思議な感覚だったのを思い出す。

誕生まで性別が分からなかったので、弟なのか妹なのか…、早く知りたくて知りたくて毎日が落ち着かなかった。それが「弟」が産まれた!と分かった瞬間に「やった~!」と両手を挙げたのだった。「大きくなったら、キャッチボールができるね!」と喜んだ。命名「宏昌」。

母親が病院から退院して戻る日、弟が初めて我が家へやってくる。自分の6才の誕生日なんて忘れていたし、それどころじゃない、この“ビッグイベント”で頭がいっぱいなのである。

母親が、テレビの前に座布団を引いて、そこに寝かしていた。最初は「可愛いね~可愛いねぇ~と頭を撫でていたのだが、それも飽きてきて(笑)僕は自分の好きなテレビ番組が始まる時間になったので台所から走ってチャンネルを変えにテレビに向って行った。もう直ぐテレビのチャンネルに手が届くと思った瞬間、父親の手が僕の身体を目掛けて飛んできて、僕は吹っ飛ばされた。間一髪で生後数日の赤子のお腹を踏むところだったのだ。あのショッキングな出来事は思い出すと冷や汗が出てくる、危うく6才にして殺人犯になるところだった、しかも退院してきた当日にだ。

そのエピソードが、後に「宏の鼻が低いのは、お兄ちゃんが踏んづけたからだ」と言われ続けることになる(笑)いまだに大人になっても弟から言われるのだが、ここで言っておく、鼻ではない(笑)この事件があった日から「人は簡単に死ぬんだ」ということを身をもって感じた。6才ながらに、こんな小さな赤ちゃんのお腹を踏んだら死んでしまうというのは十分想像できた。いまだに本気で殴り合いの兄弟喧嘩が無いのは、この所以からだと思っている。

僕が6才になるまで、寂しい思いをしていたから尚更のこと。弟には同じ思いはさせたくないという感情があった。しかし自分の友達が遊びに来て、遊びに行ってしまうと寂しそうな弟の顔がある。自分から友達の家に遊びに行こうとしなかったのは、自分の6年前の姿と弟の姿を重ねていたからだったと思う。

やはり、お腹が空くと泣き出すし、それでも親は仕事をしている。僕が何かを作って食べさせないと、もう可哀想で見てられなくなる。そうなると、自分の判断で食べ物を冷蔵庫から調達をして、親に怒られないものを分別しながら2人で分けて食べる。その判断を間違えれば全て僕の責任だ。

親が留守の時に、弟が寝てしまったので、新聞紙を布団代わりにかけたことがあった。親が帰ってきたときに怒られたこと・・・怒られたこと・・・(笑) テレビの中では、公園のベンチでお昼寝している人は新聞紙をかけて寝てると信じていたので、まっ公園じゃないけど昼寝だし、「昼寝=新聞紙」という判断は間違いだった(笑)

全て自分の判断で決断をし、それが間違えば起こられる。しかし上手くいった時は褒められ、弟も幸せそうだ。そしていつも「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と親しんでくれる。自分のおもちゃを勝手に使われて頭にきて叩けば泣き出す、暴力ではなく相手が納得する交渉をしないと、自分の感情だけでは相手と衝突してしまうというのも学んだ。

この弟の存在が、知らず知らずのうちに「リーダー論」を学んで実践していたんだと自己分析できる。そして親子愛に非常に似た「兄弟愛」というのも教わった。次回は、もっとリーダー論、組織論について思い出しながら書き出してみたい。

第2話) 鋏と櫛だけでは世界で通用しない

注目

オーストラリアに来た当初は、当たり前だが誰も僕の事は知らない。普通に英語を勉強している語学学校生、日本から来た留学生である。
英語力はゼロに等しく、テキストの中で分からない単語は「殆ど全部」って感じだった。


銀行へ行っても「英語を話せる人を連れてきなさい」と怒られて口座開設してもらえず、悔しくて隣のライバル銀行へ行って開設した。


プリペイドの携帯電話を買うと、使用開始するには電話会社へ電話して、生年月日やパスポート番号などを知らせなくてはならないのだが、あまりにも僕の英語が通じないので

「ちょっと待ってて」
と言われ、そのまま受話器を机の上に置いたまま、相手はどこかに行ってしまい、僕は20分以上も電話の前で座って待っていた。

「誰か外国人なれしている担当の人が来るのかなぁ」
と思って待っていたが、結局担当者は休憩に出かけたようで、悲しさいっぱいで受話器を置いたものだ。


「こんなんで、英語を話せるようになるんだろうか?」


と切ない気持ちのまま近所の駅から、ホームステイまでのみちのりを、涙がこぼれそうになりながら歩くこともあった。


最初は子供が4人もいる大家族の中にホームステイをした。寝床もあり食うに困らず安全な場所なのだが、結構なお金を払わなくてはいけなかったので、日本にいる間に3週間だけの生活にしようと決めていた。

その三週間にした理由は…、

    最初の一週間で街の中のストリートを把握して掲示板のあるところを探す。
    二週目にはシェアメイト(同居者)募集の張り紙を探して電話をかける。
    三週目にはその部屋を見に行って契約を結ぶ。


これは案外うまくいき、デビッドという日本が大好きなオーストラリア人の家の一室を借りることができた。このデビッドとの出会いが今後の自分の進む道のキーポイントになるとは夢にも思わなかった。

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    (写真)2003年ブリスベン・サウスバンク、人口ビーチ

「なんで自分は辛い思いをしてまでオーストラリアにいるのだろう」

と自分に問いただすことが多々あった。


海外にでた理由は
「海外で生活しているアジア人と日本人のために、髪の毛で困っている人のために、自分の日本で培った技術が役にたつのであれば」
という思いで日本を離れた。

でも不安でかなり辛い。お金も無ければ、コネもない、英語力もない。


自分にとっては、どうも日本社会が理不尽におもえてならなかった。
理容室・美容室の件数は、木村拓哉が美容師を演じたドラマ「ビューティフルライフ」を切っ掛けに美容師人口が急激に増え、それから5年後10年後にはドラマの影響を受けた美容師達がサロンのオーナーになり、美容室一軒あたりの人口の比率は低下するばかり。


美容師人口が増えればスタッフを探すのも容易になり、賃金も最低賃金を守っていれば人件費を低く抑えることができるのかもしれない。
しかし、相当な経営努力は必須だし、新しい技術がどんどん出てきて、流行についていかないと周りから置いていかれるというプレッシャーがある。毎日が他店との競争だし、どれだけ日々練習して高度な技術を身につけようが、業界の安売り合戦の負のスパイラルに引きずりこまれるのが落ち。

働いても働いても儲からない図式が頭の中で見え隠れする、もっと人間らしい生活をしながら誰かのためになることはできないものか。
こんな競争の激化するであろう業界に残って戦う気にはなれないし、働いても働いても利益にならない中で自分の大切な時間を費やしたくない。人と違うことをしてここから抜け出そう!
よく言えば挑戦。悪く言えば「逃げ」なのかもしれない。


「日本にいるよりは、この辛さの方がましだ・・・、辛いが夢が広がる!」

英語さえ身に付けば、自分には技術があるのだと、いつも言い聞かせ歯を食いしばっていた。

第3話) アメリカ生活の夢を叶える

注目

三十路に差し掛かった頃のある日、アメリカ人と結婚をした友達のお姉さんが日本へ一時帰国するとのこと。是非とも海外の話を聞いてみたく、海外の美容師事情について聞いてみた。
「本当に海外って、上手な美容師さんがいなくて、だから海外特派員とかテレビに出てくる人って、変な髪形してるでしょ」

「なるほど…、自分の次の向かう方向はこれかもしれない」

14年の日本の経験があれば…、鋏と櫛さえあれば…、自分は世界中どこにいたって生きていける。やはり昔に夢見た海外へ挑戦してみようか!でも、どうやって?
そう思っていたころ、一冊の本を手にした「アメリカ生活の夢を叶える」といったタイトルの本だったと思う。

そこに、ロサンゼルスで働く日本人美容師が紹介されていた。住所も載っていたので手紙と履歴書を送った。
「もし雇ってもらえるのならシャンプー専属でもよい、労働ビザをサポートしてくれるのなら雑用でもなんでもします。14年の経験のプ ライドは捨ててもよいです」
と手書きで便箋に向かって心を込めて書いた。

その数週間後にアメリカから国際電話がかかってきた。

「最初にアメリカの美容師免許を取らないといけない、試験を早めに申し込んで、テキストを送るから勉強しておいて。そしてビザの準備もしなくてはいけないか ら、弁護士費用と合わせて3,000ドルを国際送金で送って」
とオーナーは国際送金の仕方を教えてくれて、僕は受話器を肩に挟めながらなぐり書きでメモを 取った。


指示された通りにお金を送ったのだが、いくら待ってもテキストは届かない。電話をかけて、まだ届いていない事を告げると

「ごめんね、住所を間違えて書いて、戻ってきてしまった。もう一度送るから待っていて」

エクスプレス便で送ると3~4日で届くとのこと、しかし2週間待っても、まだ届かない。こんなやり取りが二回は続いた。

「こいつ、怪しい」

って思って、すぐに電話した

「来週、そちらに伺って、直接テキストを取りにいきます。そして弁護士費用の領収書も、その時下さい」

伺いますって言ったが、札幌からロサンゼルスだ(笑)

一週間後にはロサンゼルス行きの飛行機の中にいた。

案の定、実際に会ったらこのオーナー誠二(仮名)は挙動不審で怪しい、しかし、自分の海外行きの夢を叶えるためには、この人の手助けが必要だし、既に3,000ドルものお金を払ってしまった。

結局、テキストブックは従業員に貸し出してしまい手元にないとのこと、そんなはずないだろうと突っ込みを入れたかったが、ここは業界の上下関係の厳しさが染み付いているので、「そうですか」としか言えなかった。


尻尾をつかむために、誠二にあるお願いをした。

「ATMマシンが英語で良く分からないのですが、お金を引き出すのを手伝ってもらえないですか?」と一緒に銀行まで行ってもらった。そして自分の暗証番号を教えたのだ。

「これで、このカードの暗証番号を、このアメリカ大陸で知っているのは、自分とこの誠二だけだ」

数日後、誠二は

「ポケットにいつも財布を入れていたら危険だよ。強盗が入ってきた時に、財布も全部渡したら、あとが面倒じゃない。ポケットには20ドルくらい入れておいて、財布はここのサロンの裏側にカバンの中に入れておきなさい」

その時は確かにその通りだなと、アメリカで生活するためのノウハウかと関心し、素直に言われたとおりにした。

嫌な感は当たった。誰からも見えない場所に置いてあるカバンの中から、誠二は僕のクレジットカードを抜き出し、現金を下ろし、また財布の中にカードを戻したのだった。

すぐに日本から電話があり、カードが一日に30万円引き出されたとのこと。これを問いただすと涙を流して謝ってきた、すぐに返済するからと小切手を切って渡してくれ、銀行に持っていくと、一年以上前にクローズしていた口座の小切手だとのこと。バッド・チェックといって、これも立派な犯罪だった。

同じスタッフの里恵(仮名)もオーナーに300万円を貸していて、全く返してくれようとしないと分かった。毎月、電話が止められるから電話代を貸して欲しい。電気が止められるから電気代、追い出されるから家賃を貸して・・・・と彼女への借金が膨らんでいったそうだ。誰もが「どうして、この人はお金がないのだろう?」と不思議だった。

さらに誠二のお客さんにも、約1000万円のローンを組ませ、返済はお客さんに払わせて本人は知らん顔、このお客さんにはカット料金などを無料にしていたので、何かあるのだなと思っていたが、まさかこんな高額なローンを組まされていたとは。

結局は、このバッド・チェックとカードの盗みの二つが誠二の致命傷となり、警察沙汰になった。
スタッフの里恵のお客さんで、弁護士と市議会議員のお客さんがいたので、すぐに相談にのってもらった。さすがは議員さん、次の日には警察が来て、二人の警官が、店の表と裏口から同時に飛び込んできた。営業中にもかかわらず誠二は銃を突きつけられて手が後ろにまわった。

結局、ギャンブル中毒で、あらゆる手段と嘘をついてお金をかき集めてはカジノで全てを使っていたようだ。日本から問い合わせのあった美容師さんからも同じ手口でお金を取っては、知らぬ顔をしてお金を騙し取っていたのだった。

逮捕されてから、持ち家も財産も全て奥さんに譲り、離婚した。これで無一文の人からは損害賠償を請求しても奪い返すことはできなくなってしまったのだ。

「こいつを豚箱に入れるまで、絶対にアメリカから離れない」