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第4話) LAでの裁判

アメリカのビザが切れるので、一度日本へ戻った。そしてすぐにアメリカから電話が掛かってきて、「証人としての出廷命令が出てる、ビザが発給されるので、住所を教えて欲しい」とのことだった。損失分のお金は全額戻ってくるとは思ってなかったが、アメリカの法廷に立つことができるなんて、一生に一度あるかないかのチャンス!飛行機代は実費だったが、二つ返事で行くことにした。

電話の後、数週間経って アメリカの警察からレターが届き、それを持って札幌のアメリカ領事館へ行った。丁度ニューヨークの 2001/9/11テロの直後だったので建物の周りには道警のパトカーが非常灯を付けたまま停まり、警察官が門の前に仁王立ちをして厳重な警備体制を取っていた。

領事館の入り口には、飛行機に乗る前に通るセキュリティの装置が置いてあり、手荷物を機械に通し、自分自身もゲートをくぐった。ベルトの金具に機械が反応して止められ、ボディチェックをしてから中に入れてもらえた。

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    (写真)LA市警から、僕が証人として出廷できるように、特別なビザを発行して欲しいと在日アメリカ大使館 への手紙。


実はこの裁判用のビザが5年間も出た。アメリカは3ヶ月の学生ビザを取るのにも苦労をするのに、警察からの手紙1枚であっさり5年のビザが出るのも凄い!これで労働許可もついていたら別な人生を歩いていただろう、今頃はオージー訛りではなく、アメリカンな英語を話していたに違いない。

僕はこの裁判で被害者として出廷した。アメリカのドラマに出てくるようなシーンの連続で良い経験をさせてもらった。こんな事を言ったら不謹慎だと怒られそうだが、正直言うと「楽しめた」。

自分の番が回ってくるまで、二つの裁判を傍聴できた。英語が分からないのが悔やまれたが、オレンジ色のつなぎの囚人服のようなのを着せられ、後手錠をかけられた体格のデカイ男性三人、絵に描いたような極悪犯顔で「いかにも」だ。ゾロゾロと入ってきて横並びになって裁判が始まった。

証人席では年配の男性が「車を壊されて、殴って、なんとかかんと か~」って身振り手振りで状況説明をしていた。(当時は英語が全く理解できませんでした(涙))

3~4時間傍聴したあと自分達の番になった。弁護士に連れられて入ってきた誠二は、罪状が詐欺だったからなのであろう、手錠はかけられていなかったが留置場にしばらく入っていたのでゲッソリした感じに見えた。相変わらず下から見上げるような目つきで視線は定まらないオドオドした様子だった、まるで子供が悪さをしていて、親にばれてはいないかと顔色をうかがってビクビクしている、まさにそんな感じだ。

誠二に初対面で合った時の第一印象が、堂々と振舞っているようなのだが何かコソコソしてるような感じで目が常に動いている。仕事をしている最中も、鏡越しにいつも人の顔をうかがっていて目が合ったら視線をすぐに逸らし、視線を外した後もしばらくは目が泳いでオドオドしながら仕事をしている。今思えば誠二の心中は、いつ自分犯した罪が見つかりやしないかビクビクしていたのだろう。その反面、中毒となってしまったカジノでのカードゲームが止められない、まさしく中毒患者のような目つきだった。

目の前に置かれた聖書に左手を乗せ、右手は肩のの高さに上げて、証言に嘘はないと宣誓した。映画のワンシーンのようだった。
僕の右横には黒いマントのような服を着た裁判官が少し高い席に座っている、アメリカではお決まりの星条旗が飾られていて、目の前には書記なのだろう、ブロンドのショートヘアーの似合う若い女性がラップトップのキーボードをカタカタと音をならして、皆が話している事を一生懸命に記録している。僕には通訳がついてくれて、なんと日本語を話す韓国人の禿げ上がったおじさんだった。

この通訳の日本語力にビックリした。この日本語力で僕の話すことを正確に伝えてくれるのか?凄く不安だった。自分の発言は、この韓国人にも理解できるように難しい言葉は使わないように、通訳しやすいような語順を選んで証言をしたので、えらく疲れた。裁判の途中に相手の弁護士から「通訳が正しく成されてない」とクレームが入り、この韓国人のおじさんは動揺していた。

その場で判決がでた。結局、誠二は有罪。バッド・チェックを切った分の3,000ドルを速やかに返すこと、あとは社会奉仕をすることが判決。クレジットカードを盗んで引 き出したことについては、証拠不十分で立証できなかったらしい。恐らく裏で司法取引があったのだろう、さすがアメリカだ合理的にできている(笑)

別件である、お客さんが組んだローンの1千万円、里恵さんの300万円は民事不介入の原則?で、泣き寝入りとなった。「借りたもの勝ち」なのかと悔しい思いがしたが、不服だったら民事裁判に法廷を移し続けるしかない。
実は民事裁判でもとっくに訴訟を起こしていて、スタッフの里恵さんの帰ってこない300万円も一緒にして、精神的苦痛も合わせて、約1000万円の訴訟だった。報酬制でお願いしていた弁護士には33%、里恵さんに33%、僕に33%の割合でお金を戻してもらうという配分だ。
しかし、誠二は家も車も財産も奥さん名義にして離婚した。弁護士もお金が取れないと分かってからは音信不通となった。悲しいかな、世の中ってこんなものだろう。

それにしても「同じ美容師として情けない、いや同じ日本人として情けない。」

海外にいる日本人は、みんなが燃えるような情熱を持って日本を飛び出して頑張っている人だと思ったのだが、裏切られた感じだ。
尊敬できるような日本人に出会うのが、とてもとても難しかったのだ。


第5話) 海外に幻滅した。

裁判は一日で終わったので、残りの滞在期間中に職探しをしようとLAの中にあるいくつかの日本人オーナーのサロンを回ることにした。ビザをサポートしてくれるお店を探そうと、ある美容室の日本人オーナーに会った。

「キミね、ビザがどうのこうの言ってる段階でおかしいよ、本当にアメリカに住みたいのなら、今すぐ自分のパスポートをここで破り捨てるくらいの覚悟がないと無理無理。自分だって10年前はパスポートなんで破り捨てたから」。

結局は、ビザのサポートはサロン側のリスクが大きいからできないが、僕が日本のパスポートを破り捨てて違法就労で働く覚悟があるのなら雇ってやると言わんばかりだった。

「この人、頭おかしい」率直にそう思った。

しかし、違法就労や違法滞在をしながら滞在している人、日本から追われて逃げてきたような人が思いのほか多かった。もっと夢を抱いて、目標に向かって一生懸命頑張っている人が海外には大勢いるのかと思っていたら違っていたのだ。

「と言うことは、正しいことを正しいとして進んでいけば、この大勢の日本人の上にのし上がれるかもしれない」

言葉は悪いが日本で生きていけなく海外へ逃避行している人が集まっているようにも見えた、その人達で小さなコミュニティが出来上がっている。

「あなたはグリーンカードを持っているんですか?」「労働ビザですか?」

なんて、他人のビザのタイプを聞くのはタブーと教わった。 日本人は日本人同士で集まり、英語が片言しか喋れなくても生活していける姿をこの目で見た。


丁度この2001年、プロ野球界では、イチローと新庄がアメリカに渡った年だった。この二人は大活躍をしアメリカでも英雄扱いだったのを覚えている。アメリカでプレーをしている日本人選手は、国内では満足行かずに、もっともっとと海外にて挑戦をしている素晴らしい人達だと思う。

そういや自分のアメリカ行きの話を友達や同業者仲間に話しをした時には、真っ向から反対されてものだ。
「ヤスユキ君ね、君の両親はサロンを立派に経営していて、地域でもNo1のサロンだ、しかも君は長男なんだから後継ぎだろう?実家に帰って後を継ぐべきだ!」
「君にだって大勢のお客さんが付いているし、組合の教育部に入って講師になれる人材だ、何がアメリカだ!逃げてるだけだ!」
なんて事をよく言われていた。

その度に新庄の移籍時の話を引き合いに出し、
「阪神の年俸5年12億円を蹴って、ニューヨークメッツの2200万円で契約した、新庄選手と比較するのはおこがましいですが同じことです。タイガースに5年残れば将来幹部候補だし、生活も保障されている。僕も地位や名誉も興味ありません、安定が保障されている現状維持より、給料ゼロでもいいから自分に合った環境に飛び込みたいのです、それが逃げと言われてもいいのです」。

今思えば、本当に逃げだったのかもしれない。古い組合体質が根強く残っている業界、自由と言いながらも束縛が多い、広告を出せば近所の同業者から 「お前のところだけ儲けたいのか」と電話が掛かってくる。忙しくて夜8時を過ぎてもお客さんをやっていれば道路の向こう側から、営業時間を守っているのかと視察している車が停まっている。

海外にいる日本人は、日本の妬み・僻み体質が嫌で、出る杭は叩かれ抜かれという風潮に反発したく、人間らしい気持ちの豊かな生活をしたいと夢を抱いて頑張っていると信じていた

が、しかし・・・、はっきり言って「幻滅」した。自分のように志を高く持っている人に出会えるのは非常に少ないとわかった。

このアメリカ、ロサンゼルスで二つのことが分かった。 一つは、「海外=流行の最先端」の方程式は崩れた。勤め先の日本人向けサロンの技術が、新しい日本の技術と比べると10年前で止まっていたことだ。

僕が勤めたサロンの誠二はLA在住8年目だった、しかし彼は8年もの間、日本の新しい技術を一切勉強していなかったのだろう、自分が見習いだった頃の昔懐かしい仕事が目の前にまだあった。

海外で滞在しているお客さんも長期滞在になればなるほど日本の流行に疎くなり、流行りモノを追いかけなくても良いので昔の技術の方が安心できるのであろう、いや流行を追いかけたくても、日本の情報にアンテナを張っている美容師が少ないのかもしれない。

ダウンタウンから少し離れてしまうと、アメリカ人経営のサロンでも流行とは程遠いようなサロンがゴロゴロしている。流行の先端を行っている美容室というのは、ほんの一握りだということ。平均値で計れば日本の技術の方が断然レベルが上だった。

も う一つは英語が話せないと、技術がいくら優れていても日本人客しか相手にできない。結果として自分の客層が広がらないのだ。台湾人を初めとして香港人やシンガ ポール人などは日本のスタイルが大好きで、日本人美容師にやってもらいたいから「英語の話せる」上手な日本人美容師を探す。やはり共通語は英語、言葉が離せないとコミュニケーションが取れない、 結果として仕事にならない。


新天地のオーストラリア生活を始めるにあたって、自分が肝に銘じておかなくてはならない事をLAで学んだようだった。自分の次の目標は決まった、次は仕事を辞めてでもいい、英語を取得するために日本人の友達は作らない、できるだけ日本語は読まない書かない聞かないし喋らない、日光のサルみたいだが、あのLAで生活しているのに全てを日本語で日本人コミュニティの中だけで生活しているような「海外日本人」にはなりたくなかった。

「日本人美容師」という看板を掲げている間は、海外に居ようが常に新しい日本の技術を勉強し続けなければならない、理美容師としての勉強、情報収集をストップした時点で「日本人美容師」の肩書きは外そうと心に誓った。

そして間違っても、営業中に警察に取り押さえられ後ろ手錠をはめられた誠二のような日本人美容師にはなりたくない。
2002年2月 僕はスーツケース一個で次の新天地、ブリスベンという街に降り立った。英語さえ身に付けば自分には技術がある、言葉と技術が伴えば、必ず世界中どこでも生きていける、そして特別な事はいらない

「誰でもできるような正しいこと、当たり前の事を続けていけばよい」と信じて。

第6話) 赤い英語

今の僕の英語力がどの程度なのかよく聞かれる。最近留学して来たばかりの学生などは特に気になるようで、「もうペラペラですか?」なんて聞いてきます。ペラペラというのは30歳過ぎて英語を習った僕には有り得ないと思っている。聞くところによれば、10歳を過ぎて海外で英語教育を受けても、絶対に日本語訛りが残ってしまうそうだ。

そもそもペラペラの定義って何なのかって思う。100%ネイティブのように話せるようになるのは不可能だけど、相手の言っている事を理解でき、分からない単語が出てきたら「その単語の意味はなに?」って聞くことができて、間違った文法ながらも自分を主張でき相手に理解してもらえるものがペラペラだとしたら、僕の現時点での英語力はペラペラなのだろうか。

英語を学習している人にとって、僕のバックグラウンドは興味があるらしい。「英語は昔から得意だったのですか?」とか「国語の成績はよかったのですか」とも聞かれるのだが、実際のところ学生時代の僕は、こんなに英語ができない生徒もいなかっただろうと思う。高校生になっても中学一年一学期の英語レベルで止まったままなのだ。「英語さえできれば人生が変わっていた」と何万回思ったことか。もう英語が嫌いで英語の授業は憂鬱で、宿題なんてやったことが無く、テストは記号問題しか答えれなく(山勘で当たるものだ)毎年三学期が終了しても、英語と国語の教科書は新品同様だった。これが中学と高校の6年間続いた。

天は二物を与えず、されど一物は与えてるとでも言いましょうか。理科と数学だけは得意だった、特に理科なんて一度教科書に目を通せば覚えてしまうくらいだった。クラスメイトの女の子に理科を教えて欲しいと頼まれて教えていたのだけど、その子は伝統のある進学校に合格し、自分は新設校の中流学校だった。英語がゼロというハンディは正直きつかった。

幼少の頃から変わった子供で、幼稚園児のくせにドライバーを片手に家中の家電を分解しては怒られ、与えられたのは古くなったコンセントの部分と壊れているラジオ、好きなだけ分解しろと父親が与えてくれた(笑)

小学生の頃は半田付けの練習をして鉱石ラジオを作り、トランジスタラジオを作り、アマチュア無線の免許が欲しくて無線工学を勉強していた。星が好きで、流星群の時期になると物置の屋根の上に寝転がって冬の晴れた夜空をいつも眺め、天文年間などを読んで数字が並んでいるのを見てワクワクしていた変な小学生だった。
中学になってもニュートンなんて科学専門誌を読んでいて、心から面白いと思って読んでいた。

ところが、当然であるが高校入試の時には英語で苦労する。高校入試の点数が、英語が8点、記号問題3問しか合ってなかった。その代わり理科は満点という変な点数で、足して二で割って、札幌では中レベルくらいの高校に入ることができた。ここでも英語さえできれば進学校に入れたのにという後悔の念があった。得意教科の物理は学年トップ、でも英語はいつも赤点だった。赤点を取ると通信簿に本当に赤のボールペンで「1」って書かれるのだ、そして全校生徒が出席をして校長先生の話を聞く終業式には出してもらえず、赤点保持者だけが集まる別室に呼ばれて「お前らはまだ一学期は終了していない、夏休みは学校へ来て授業を受けること!」とVIPルームへ隔離される。

統計確立なんて授業は面白くて仕方が無かった。微分積分はクイズだと思って一生懸命解いていた。
大学入試は、理科と数学だけが入試科目の大学が無いかを探した。しかしどこも必ず英語が必須で、まっ確かにこんな自分に都合の良い大学などあるわけないと思った。先生からも理科と数学だけが入試科目だったら早稲田でも慶応でも好きな大学いけるのになと嫌味を言われたこともあって、苦笑いするのが精一杯だったのを思い出す。

高校三年の10月、札幌はストーブを出す季節。一枚の資料が学校から手渡された、卒業生の進路先だった。札幌市内の某大学の卒業生は、聞いたことも無い小さなスーパーや工場へ就職が決まっているようだ。そう、これが自分が入れそうな大学のラインだったのだ。
「一生、こんな小さな会社で働いて、一生雇われサラリーマンでいいのか?」
それじゃ自分が社長になるには、どんな道があるのか。6年間勉強しなかったツケがこんな所に回ってきたと後悔をしたが後の祭りだ。

「手に職をつけて5年や10年辛抱すれば、自分がオーナーになれば経営者ではないか」

経営者の可能性を見て、技術の取得ができ、尚且つ英語のない学校へ言った。北海道理容美容専門学校、母親の卒業した学校だ。

もし、自分が英語の成績が良くて、進学校へ行き、良い大学へ進んでいたら、海外で働くことなんて無かったかもしれない。

「人生とは遠回りが実は近道だったりするんだ」

こんな英語のできなかった自分が、海外で英語の中で仕事をしている。こんなに国語の嫌いだった自分が、凄いメンバーと一緒にWebマガジンに投稿しているし、過去にも某出版社から執筆依頼があり自分の文章が数ページであるが本の中に掲載され発行された。

僕は社会人になってから本を読み、文章の書き方を勉強した。30歳を過ぎてから英語のABCを習い3単元のSを取得した(笑)。勉強に遅いなんてない、勉強したいときが始め時なのだ、年齢なんて関係ない、周りの目なんてどうでもイイ。思い立ったが吉日である。

こんなに英語が駄目駄目な生徒だったのに、文章なんて書いたことのない生徒だったのに。。。

あきらめない限り、夢は逃げない。20年後にスタートしたっていいじゃない、だって今は嫌いなんでしょ!?好きになった時にやりゃいい、好きになれるように仕向けりゃいい!
人生というのは分からない。分からない人生だから面白いのだ。

第7話) 30歳を過ぎての語学留学

「語学留学」という言葉にピクッと反応してしまう人も多いのではないでしょうか。一度は誰もが憧れる海外で英語を勉強する、そんな僕も最初は英語の学校から始めました。

今の時代、インターネットで何でも情報が入るし、無料で学校申し込みの代行をしてくれる所もたくさんある。確か当時はオーストラリア大使館に問い合わせると、学校のパンフレットを送ってくれるサービスがあった。(今でもあるのかもしれない)

インターネットをフルに利用して、自分で学校の評判などを調べて、良さそうなところを見つけて、エージェントにお金を送金した。実はこのお金を送る段階が一番緊張した。一度、裁判沙汰になっているので、この会社は大丈夫かを更に調べてからお金を送り、入学手続きをしてもらった。一切の手数料はかからずに、逆に無料なのは学校から紹介料でも貰っているからだろうって勝手に勘繰ったりしていた。

オーストラリア移民局の指定病院が札幌にもあり、そこに予約を入れ健康診断を受けた。なんて事のない身体検査と問診、レントゲン写真で2万円。いい商売だと計算してしまう自分が悲しい…(汗; ビザのスタンプをもらうのにパスポートを大使館へ送って、返送してもらうという行程もちょっと不安だったが、思ったより簡単に学生ビザが下りた。

ブリスベンの学校に決めたのは理由があって、まず一番はロサンゼルスの気候に一番近い都市だったこと。地図帳を引っ張り出し、年間平均気温、降水量、湿度、晴れている日数、そんなのを調べて、ブリスベンが一番理想に近かったのだ(笑) ゴールドコーストでも良かったのだか、どうしても遊びのイメージがあって、英語取得が第一目標の僕にとっては逆風になる気がした。

自分の語学留学する理由が「英語を身につけて、英語人と一緒に仕事をする」ということだった、オーストラリア人でもアメリカ人でもいい、英語環境の中で仕事をし、絶対に日本人の下では仕事をしないと心に決めた。アメリカの教訓がそうさせたのだ。そのためには、一時的に仕事を辞めてでもいいから語学取得に入らなくては駄目だと思った。

札幌の地下鉄麻生駅から千歳空港行きのバスに乗り、外は雪が積もっていて雪祭りの雪像を作るために自衛隊のダンプカーが新雪のキレイな雪を運んで道路を往来しているのがみえ、しばらくこの雪を見ることもないんだなと窓から見える光景をぼんやりと見ながらバスのアナウンスが流れてくる・・・。

千歳空港は国際線も発着するので、バスの中は英語でのアナウンスも流れている。この当時は何を言っているのか全く聞き取れない英語力で「こんな英語でも聞き取れるようになるのか?」と不安げだった。約1時間が経過して、千歳空港に着いた。インターネットで最安値の航空チケットが、その時はマレーシア航空だったので、成田空港からマレーシアに向かい、一泊をしてからブリスベンに向かうという空路だった。どうしてなのか遠回りをして行ったほうが飛行機代も安く、違う国で遊べるというのがお得な感じがしていた。

これからの生活を考えると、できるだけ節約しなくてはならず、マレーシアで一泊のストップオーバーも、一番安い宿をさがした、一泊500円だった(笑) シャワーは水だけでお湯は出ない。6畳間くらいのスペースに事務所にあるような鍵付きのロッカーが一個、二段ベッドが両側に二つ、誰かが一人ベッドから降りるスペースしかないくらい狭い。エアコンはあるものの、なぜか窓が開いていて熱い。スーツケースとリュック一つで日本を出た最初の夜だったが、ずいぶんとエキサイティングな街に出会ったものだ。。。

朝の屋台朝食
<マレーシアでの朝の屋台と朝食>

一日中、何処かかしらで屋台が並んでいて、100円も出せば、美味しいマレー料理をお腹一杯食べれたし、夜もチャイニーズ料理を安く豪華に食べれる。夜の出店(マーケット)では偽物のソフトやDVDなどを売っており、日本語で「部長さん!安いよ!にせものだよ!あ、ゴメンナサイ、社長さんだ!」って売っている。誰か正しい日本語を教えてやってくれ!

一泊500円のバックパッカーを後にして空港へ向かったが、これも一番安い電車とバスを乗り継ぐ方法にした。普通、日本人であればタクシーや高速バスなどを使って空港まで往復するのだろうが、マレーシアの電車に乗って、駅で乗り継ぐなんて誰もしないだろう(笑)

電車を下りて小さな駅。とんでもない田舎へ来てしまったものだ。丁度お昼時だったので、屋台は人々で賑やかだった。いや、これでも賑やかなんです(笑) 本当に寂しい村の駅って感じでした。空港行きのバスが本当に来るのか不安だったけど、エアーポートとバスという単語だけ知ってれば通じるだろう!これは英単語と言うよりは、日本語の外来語なので英語の部類に入りませんが・・・・。

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<とある村の駅前屋台、道路は砂利道、アジア人が珍しく、みんな僕を見ていた>

マレーシアからブリスベン空港に到着したのは2002年2月2日。南国の香りがして、空港の周りにはヤシの木が立ち並んでいた。語学学校の職員が学校のロゴの入ったボードを持って待っている、そのスタッフがオーストラリア人だった、自分の名前を言い、名簿にきちんと載っていて一安心。ここまで来て、あなたの名前は無いなんて言われたら笑えない(笑)

自分と同じ学校へ入学する生徒が、他に5人くらいいて、全部が日本人だった。みんなは、出身はどこ?とか、どこの学校へ行くのなど、日本語で話し始めていた。僕はできるだけ日本人と話をしたくなかったので、グループから避けて、オージーのおじいちゃん運転手と一緒に駐車場まで歩いた。僕が話せるのは「名前」「出身地」「Yes」と「No」、あとはハローやグッドモーニングなどの挨拶程度だった、それでも日本語を話す日本人と一緒にいるよりは、心地よかったので、ニコニコしながら車を止めてある場所へと向かった。

おじいちゃんが向かう車を見て驚いた!白のリムジン!こんな高級車で迎えにこなくていいから、入学金安くしてくれって心の中で叫んだ(笑) 後部座席は6人が3人+3人と向かい合わせになって座るので、日本語で話しかけられないように根暗の少年を装ってずっと外の景色をみていた。

ここから、皆がそれぞれのホームステイの家族の家まで行き、一人づつ荷物と一緒に下ろされていく。まるでドナドナのようだ。街の景色はとても緑が多い印象だった。どの家もどの家も緑に囲まれている。南国の木々の中に家の屋根や壁が覗いているような感じで自分は南の国へ来たんだという実感が沸いた。

一番最後は僕だった。と言うことは街から遠い場所なんだろう。ホストファミリーはリムジンに乗ってきた日本人学生にビックリしていた様子だった。ホスト・ファザーとマザー、子供が2歳4歳6歳8歳と、キレイに偶数歳でした。マレーシア滞在と早朝の飛行機で疲れきった僕は、自分の部屋に案内されて、そのまま寝てしまった。

こんな語学留学から始まったオーストラリアでの第一歩。

目標は英語の取得。そして英語人と仕事をする。そしてブリスベンで名前を売る。

その基盤はやはり英語だった。これからも日本人を避ける日々が続いた。

第8話) 語学取得は自分次第

ブリスベンに到着した翌日から語学学校が始まった。この日は初日と言うこともあってホームステイ先のホスト・ファザー、お父さんのトニーが学校まで車で送ってくれた。その車中、このトニーの英語が全然わからない、話かけてくれるのだけど、もう100%分からないのだ。。。聞き取れなかったら「Sorry?」って言うのはアメリカで覚えたのだが、なんども「Sorry?」で、最後には「I’m Sorry」で「ごめんなさい」であった。

だいたい語学学校と言えばビルの中にあり、この学校もビルの3フロアーが学校で、そこを細かく教室に分かれていて、生徒の英語力に分かれてクラス編成をしている。全校生徒が300人くらいいる当時では大きな語学学校だった。

このクラス編成は、レベル0(低)からレベル6(高)まで分けられていて、やはりレベルの高いクラスへ行くと、日本人は極端に少なくヨーロッパ人が多くなり、逆に低いクラスだと日本人、韓国人の比率は格段と上がる。目指すは上のクラスなのだが、4週間ごとに学校内で試験を行い、60点以上取らないと一つ上のクラスには上がれないシステムだった。

入学日は毎週月曜日に設定され、毎週毎週、多くの新入生が世界中からやってくる。それにしてもアジア人の多さ、日本人の多さにビックリした、8割はアジア人、その半分は日本人だった。初日の午前中はオリエンテーション、学校についての規則や注意事項について新入生に説明をする。

当たり前って言えば当たり前なのだが、全て英語で説明をするのだ。「その英語が分からないから勉強しにきたのに・・・」なんて心の中でつぶやいたが、各国から集まっている生徒の言語の全てに同時通訳するわけもない、国連会議じゃないのだから。

そのオリエンテーションの中で、先生が何度も言っていた言葉、「いんぽーたんと」「でぃふぃかると」。何回も何回も出てくるけど、意味がわからず。僕は手帳にカタカナでメモを。。。

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<2002年2月のメモ- しばらくこのスタイルが続く、先生の発した音をカタカナで書きとめ、スペルを想像して辞書で意味を探した>


今思えば、どうしてこんなに知らない単語が多いのか笑えるくらいだったけど、これを一個一個虱潰しのごとく覚えていくしかないと覚悟した。

午後の試験を受ける。筆記試験と先生と一対一の面接。そりゃアメリカに、日本人社会の中に居たとはいえ3ヶ月の間は住んでいたので、簡単な自己紹介くらいは言えるつもりだったし、ゆっくり話してくれれば、何を言っているか何とか想像力を膨らまして少しは理解できると思っていた。しかし、撃沈…、先生の質問が分からない、自分の名前と出身地、職業は言えても、それ以上になると答えられない。

筆記試験もお手上げ状態。問題の意味が分からない。結果は下から2番目のクラス。一番したはABCのアルファベットも分からないくらいのレベルだというから、笑えない。

僕が入ったクラスは18人いて、7人前後は日本人、同じく韓国人も7人前後いて、あとは台湾、ブラジル、コロンビア、などだった。授業も当然100%英語で説明をする。分からない単語が多すぎて本当に困った、それと同時に先生の正しい発音の音と、自分が思う単語の音とが違うので苦労した。

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<課外授業と称して、週に何度かは野外BBQを行うことも>

自分が英語取得戦闘態勢に入っているなか、その他大勢の日本人はどうしていたかというと。授業中も日本語で話しかけてくる、休み時間は日本語同士で集まってグループを作り、休みの日も日本人グループで小旅行。もう旅行ついでに学校へ来ていて、英語が話せなくて日本へ帰る人の多いこと。。。殆どの人が、1年語学学校へ通っても、英語が話せないで帰国してしまう。英語取得は環境ではなく、自分次第なのだ。

僕は語学学校の中の日本人達からは嫌われ者でして、学校内では日本語で話しかけられても英語で答えていたし、まず日本人の近くに寄らなかった。一歩近づいてきたら一歩離れるような(笑) 学校の帰りも日本人がいたら目を合わせないようにしたり、「お願いだから日本語で話しかけないで」というオーラを全身から放出していた。

そうすると、休み時間などで、遠くの方から日本語で「ねぇあのYasuって言う人しってる?日本で美容師やってたんだって、英語でしか話さないなんて感じ悪い」ってヒソヒソと噂話が聞こえる。いやいや、英語を勉強しにきているのに、日本語で話している君たちこそ感じ悪い・・・とは言わなかったが(笑) 僕は人生の目標設定の一つが英語、だから勉強しに来ている、でも他の人たちはバカンスついでに英語学校に来ていると解釈していたので、腹も立たない。

同じ出身国同士が集まると言うのは日本人だけではなく、やはりそれぞれ同じ言語を話す人達でグループを作り、母国語で話すのは楽であろう、休み時間など色々な言語が飛び交う。全ての教室や休憩室に「英語以外の言語は禁止」なんて張り紙はあるものの空しいだけ。しかし、僕のように真剣に英語を学びたいという生徒も少ないがいる。類は友を呼ぶもので、志の強い人が集まって一つのグループを作っていくのだと感じた、みんなやはり英語で仕事をしたい、大学へ進んで勉強したいという、短期間で早く英語を取得したいという思いの人間でグループができ上がってきた。

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<僕の隣にいるのはフランス人のカミル、後ろにいる二人は恐らく韓国人で名前は覚えておらず。>

もう7年が過ぎた今でも、この中の何人かと交流がある。コロンビア出身の女の子は、今は大蔵省で勤めている。台湾の男の子は大学でエンジニアの勉強をしているし、タイの女の子は実は大富豪の娘だったり(笑) その反面、日本人同士で楽しく日本語で学校生活を楽しんでいた子達は、噂すらも聞かない、日本のどこかで立派に仕事をしていてくれればいいが。

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<コロンビア出身のヒメナ、今は国に戻って省庁のお役人である。>

まず、このオーストラリアで仕事を取るためには、IELTSという試験にパスしないと、専門学校や大学、永住権、労働ビザなど取得できないのである。国は英語力の無い人は勉強だけして住み着いてもらっては困ると言わんばかり。しかし、当たり前と言えば当たり前(笑)

最低点が0点~最高点9.0というIELTS(アイエルツ)英語能力認定テストで、レベル5.5程度の得点を取れればTAFEという州立の専門学校に入学できるし、永住権が申請できる(現在の永住権の申請には職種により5.0~7.0の幅がある)。これは日本の英検2級、国際コミュニケーション英語能力テスト「TOEIC」の650~700点に相当するレベル。

その見知らぬIETLS、ライティングは白紙を渡されエッセイ、スピーキングは試験官と一対一の面接、全て筆記式のリスニングにリーディング、とにかく試しに受けてみないことには、自分の勉強する方法、戦略が変わってくる。


早速受けてみた。


結果は「レベル2.0」。


そんな点数本当にあるんだと先生も驚き(笑)


正直笑えなかった。


英検5級や6級レベルって(涙)


どうやって英語力をあげていくか、これ無しでは英語人と仕事はできない、大きな壁が滞在2ヶ月目で立ちはだかった。

理屈じゃない、やるしかない。。。

第9話) 日本語は天敵

語学学校に行こうが、オーストラリアに住んでいようが、日本にいようが、環境で英語が身に付くとは思えない。語学は自分との戦いである。周りは関係ない。

語学学校に一週間通っても、週に25時間程度の授業である。先生は生徒に飽きさせないように歌を歌ったりゲームをしたり、色々と工夫しているのが伺える。 その25時間の中で、自分が英語を使って話する時間は合計して15分あるかどうかである、結局は英語を話せるようになるのは、教室の外でどうするかであ る。

ある言語学者が、こんなことを言っていたそうだ。「成人になっても、自分の母国語を100%ストップし、英語だけで生活をし、一年経てばネイティブに近い 英語を話せるようになる」との事。もちろん、日本語を100%ストップして、一年間何も喋らなくては意味がない。今まで日本語で話していた量、聞いていた 量、読み書きしていた量を全て英語に置き換えて生活するという条件であろう。

当時は、日本に婚約者を置いて来たので、100%の日本語をストップすると言うのは別れを意味する(笑) 自分の環境では80%なら日本語をストップできるだろうと判断をした。ちなみにその婚約者は今の嫁さんである。

今、7年前を振り返って、この日本語ストップ作戦が、とても効果的だった。当たり前だがネイティブの様になるなんて99.99%不可能だが、それでも英語を覚える近道だったのは間違いない。

まずは、英和、和英辞書は半分は日本語で書かれているので、ストップ。英英辞書、それもアメリカの辞書ではなく、オックスフォードやケンブリッジなどの英 語辞書を購入。いつも栞を5枚挟んでいた、と言うのは、一つの単語を調べるのに、その単語の説明文が解らないので、また単語を調べる、その単語も解らない 単語で説明してるので、また調べる、終いには、何の言葉を調べているのか分からなくなるので(笑)栞が必要だった。

なんで5枚かというと、キリがないので、5枚の栞を使用して分からない場合は英和辞書を調べるというルールを自分で作った。そして、調べた単語は、自分の ノートに「自分用の英英辞書」のような感じで、例文を交えて一個一個作った。こんな事して、英語を覚えれるのかなといつも疑問だった。

スピーキングや、ライティングの時は、和英辞書を使う必要があった。日本語は外来語で英語がカタカナになっているものが多いので、比較的名詞は覚えやすく 有難かった。しかし、形容詞や副詞、動詞は日本語訳とズレているので、和英辞書で調べても、必ず英英辞書でダブル・チェックしないと頓珍漢な英語を話して しまうので必須だ。

この英英辞書、3ヶ月でボロボロになってきて、一年後には手垢で真っ黒、テープで継ぎはぎな辞書となった。いつも読む本は英英辞書という徹底振りだった。

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ニュースも日本語では読まない、ビザの情報が欲しかったので、日本語フリーペーパーだけは読むようにしていたが、ネットでニュースなんかも読まなかった。もちろん日本語も聞かないように日本人は避け、読まない書かない聞かない喋らないを可能な限り通した。

やはり、何事もインプットが無ければ、アウトプットは有り得ないので、聞きまくり、読みまくりが最優先に必要なことだと思った。そうすると徐々に話すリズ ムや言い回し、イントネーションなどを覚えるし、エッセイを書く時もパターンが分かってくる。あとは単語力が付けば、一気に伸びる!


朝、目覚めて「Good Morning」から、「Good Night」と寝るまでの一日を英語で通さないと駄目だろうと、日本人の住んでいないシェアハウスを探した。David とVincent というオーストラリア生まれの二人が住んでいる家の一部屋を借りて共同生活が始まった。

このVincentが日本の電化製品大好きで、パソコンからポータブルCDプレイヤー、デジカメも何でも日本のメーカーを持っている。そして、僕が引越し して来た日から、質問攻めにあった。間違った発音をすると直してくれる、自分が聞きづらいので、知りたいことをスムーズに聞くためという単純な理由から だったが、有難いハウスメイトだ!
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この国は、本当に年齢なんて関係なく、まだ20歳くらいのVincentが、一回りも年上の僕を普通に接してくれる。日本の感覚だったら、いくら共同生活とはいえ、自分より5歳年上の人が住み始めたら、ある程度距離を置きたくなるものだろう。

時々、語学学校の終わる時間に迎えに来てくれて、色々と喋りながら、どこ行くわけでもなく、ただ30分の道のりを歩いて家に帰るだけなのだ(笑) それでも、いつも彼は何かを 質問してくれるので、僕は絶対に答えなら無くては駄目で、これが良い英語のトレーニングだった。
友達の家に行くって言って、一緒に連れて行かれ、20歳く らいの若い子達のマリファナパーティをこの目で見て驚いた。ちなみに、このVincentも僕もこっち系には手を出さず、彼は「やつらがマリファナパー ティしてるって知っていたら、行かなかったのにゴメン」と何度も謝ってくれた。僕にしてみれば、なかなか見れる光景じゃないので楽しかったが(笑)

もう一人のDavid、バイクが好きで、日本に2年くらい英語の先生をしていたので、日本の文化を良くしっていて、日本人の英語訛りもよく知っているの で、僕の英語の間違いを直してくれた。ただオージーは基本的に面倒くさがりなので、自分の生活ペースは乱さないように、気が向いたら英語を教えてくれる。 このDavidは自分の言いたい事をダ~っと話続け、永遠に話をしている。これはこれでリスニングの勉強になっていた。

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ただ異国人との共同生活は大変だった。まず、誰も掃除はしないので、放って置いたら末恐ろしいことになる。他人の事まで考えるという事をしないので、夜中まで音量を上げながらテレビをみたり、人が勉強していてもお構い無しに話し続けたり、そりゃマイペースな人たちでした。

しかし、このDavid・・・、僕のブリスベンでの美容師活動としての道のりに、後々まで重要なキーマンになるとは、この時は予想もしなかった。

この家は、部屋が一個余っていた。ある日「Yasu, 日本で美容師をやっていたのなら、この余った部屋を使って友達の髪とかやってあげてもいいよ」

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そう言ってくれて、余っている8畳間程度の部屋の改造計画が始まった。もちろん家賃は二部屋分払う約束でスタートした。

第10話)喋りまくる。

「海外へ出て、三ヶ月もしたら突然英語が聴き取れるようになり、一年もしたらペラペラになる」

絶対に有り得ません。みんな、そう思って留学するのですが、こっちに住んでいる日本人100人に聞いたら、100人とも同じ事を言います。語学取得は、そんな甘いものではありません。

・・・という事を、この第一章で説いてきたわけですが、
「それじゃー短期間でどうやったら、ある程度のレベルまで英語が身に付くんですか?」と質問を受けます。自分自身もまだまだ発展途上の段階なので、偉そうな事は言えませんが、結論としては。

「喋れるように成りたければ、喋りまくる」
「聴き取れるように成りたければ、聴きまくる」
「読めるように成りたければ、読みまくる」
「書けるように成りたければ、書きまくる」

そして、インプットが無ければ、アウトプットは有り得ない。

「聴けないと、喋れるようにならない」

「読めないと、書けるようにならない」

そして大事なことは、「頭の中で通訳・翻訳機能を使わない」

最初は英語で聴いた事を、読む文章を、「いちいち頭の中で日本語訳で訳して意味を理解する」のを止める。

例えば・・・
Over 14 years of experience in Japan and qualified in both Japanese and Australian hairdressing,

これを、英語で読んで、頭の中で日本語に翻訳しないで、そのまま意味を理解する訓練をする。頭の中で日本語で読まない。

次に、話をする時も、言いたい単語を日本語で探さず、英語の単語を頭の中で探す訓練をする。

もちろん、発音やイントネーション、文法も大切だけど、まずは日本語を使わない工夫をする。

ブ リスベンに渡って3週間が経過してから、オージー達との共同生活が始まって、その家のオーナーが、余っている部屋に上下水道を通してくれた。そこで友達の 髪を切ってよいという事で、そのデビットも、色々なアジア人の女の子が来ることを想定していたらしく、楽しみで仕方がないらしい(笑)
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<勉強机を改造して作ったシャンプー台>

当時の僕は日本人の友達がゼロだったので、お客さんはアジア人からスタートした。

クラスメイトの台湾人の男の子から始まり、一気に口コミで広がった。

予想しなかったのが、その自家製サロンが自分の英語の練習の場になったのである。

当たり前なのだが、お客さんの誰もが同じ質問をしてくる。

「日本はどこ出身?」
「美容師は何年の経験があるの?」
「どうしてブリスベン?」
「いつも何してるの?」
「ここのシェアハウスはどうやって見つけたの?」
「学校はどこに行ってるの?日本人は多い?」

この類の質問を、一週間に何十回って英語で答えていた。
そうすると、いつのまにか、頭の中で翻訳機能を停止しながら、直に英語で話せるようになっていく。自分のスピーキング力の取得は、学校ではなかった。

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自 分が語学学校を卒業して、TAFE(日本で言う職業訓練+短大のような教育機関)のビジネスコースに通っていた時は、やはり自分と同じ語学力のアジア人が お客さんとして集まるようになる、その中でもっとレベルアップした英会話が必要になり、そこでも毎日のように、同じ事を繰り返して「喋りまくる」。

そ うこうしているうちに、予約が3週間先まで埋まってしまうという状況が続いた。

宣伝の類は一切しなかった。それでも口コミとは恐ろしいもので、友達 が友達を連れてきて、忙しくなり、台湾人が日本人を連れてくるという逆の現象が起こって、日本人のお客さんも増えてきた。試験前なので休みというと「どう してだ!自分一人くらい切っても分からないだろう!」というお叱りの電話など日本人も含めて頂戴したこともあった。

ここまで忙しくなると、「潜り美容師」も限界だと思い、2年も経たずに屋号もない「シェアハウス・サロン」は閉店。職探しに出ることになったのだ。

当初は英語取得を目的として、アメリカに戻ろうかなんて思っていたのだが、このシェアハウス・サロンの年間の顧客数が半端な数ではなく、場所が悪くても、正しい事をしていれば口コミで広がり、十二分のビジネスチャンスがあると判断し、ブリスベンに残るのを決心した。

本格的に職を得る前に、もう少し勉強をしようと思い、前出のTAFEのビジネスを勉強した。これはオーストラリアの税金の知識や帳簿の付け方、初歩的な事では、電話の取り方からメモの残し方などを勉強できるコースだった。

こ のビジネスを勉強している時が、恐らく一生で一番勉強した時期だったであろう。もう勉強しても勉強しても課題をこなすのに必死。論文提出など 1500~2000単語(文字数ではない、単語数)でまとめるとか、その提出後にはプレゼンテーションが待ち受けていて、その頃の一日のスケジュールは
朝4時、5時 起床 勉強
朝7時30分 朝食
朝8時30分 学校到着 テキストに目を通す
朝9時 授業
午後3時 授業終わり、図書館へ 取り合えず宿題はその日に終わらし、勉強と論文整理とリサーチ
午後7時 帰宅・夕食
午後8時 単語の整理と復習
午後9時 消灯

そして、週3日の授業の無い日は仕事と、何もしない日など無かった。この時の僕の年齢・・・・日本で経験14年から想像してください。

この半年のコースで、語学学校とは全く違う、英文を読み書きするテクニックを学びました。そして帳簿の付け方と税の仕組みなど、オージー社会で生きていく制定限度必要なマナーや常識など。。。

やはり、海外で生き抜くための基本は言語。

次は、オージーのサロンで働くための準備として、オーストラリアの美容師科へ入学することに。

わざわざ、現地のコースを受ける目的は、
美容の技術を学ぶのではなく、

1、専門用語を英語で知る
2、英語でどうやって教えるのか先生の指導技術を盗む。
3、日豪の教育現場の違いを知る
4、お客さんとの英語での受け答え、英語でのコミュニケーションのテクニック。
5、オージーの美的センス

という理由だったので、学校選びは、絶対に日本人のいないところ。

片道1時間半、電車とバスを乗り継いで、校内にはコアラが昼寝しているような学校だった。

ある程度、身に付いた英語力と思っていたのだが、この100%オーストラリア人の環境に飛び込んだ時、自分の英語力の低さを思い知らされた。

外国人慣れしていないオージーは、僕の言っている英語が通じないのだ。

ここから、発音とイントネーションにこだわる訓練が始まった。